「忖度」が好ましくない正義以外の理由。

「忖度忖度っていうけど、どこの組織にだってあることじゃない?」
そう言いながら彼は鳥の軟骨揚げを口に放り込み、レモン酎ハイをおかわりした。
「仕事を上手く回すためには、時にはエラい人の意向を汲んでフツーと違う段取りで仕事することだって必要じゃん。だから忖度の何が悪いのって感じだよね」
なるほど。

正義だ公正だとか正面切って怒れるほどこちらも若くないが、エラい人の意向を汲んで通常のルールや法律をすっ飛ばして何かを行う「忖度」が好ましくない理由を考えてみたいと思う。

物事を考えるには、どの視点で考えるかを意識しないといけない。
社会全体をゲームに見立てて、そのプレイヤーの一員として社会をみるミクロの視点なのか、ゲーム全体を上から眺めるマクロの視点をとるのかで見えるものは違う。立ち位置によって見える風景は違うのだ。
そこらへんに無自覚な人は多いが、自分は今どの視点で発言しているかを明確化できない人は物を考えるのには不向きだ。

冒頭の友人のコメント、「忖度なんてどこにでもある、あって当然」というのはミクロ視点の話だ。コネとか縁故とか接待とか駆け引きとか、そんなものを駆使してそれぞれのプレイヤーが自分に有利にゲームを進めることはたくさんある。
だがマクロの視点、社会というゲームをよりスムースに動かすという視点からすると、忖度が横行するのは望ましくない。個々のプレイヤーにとって、ゲームが複雑化しすぎるからだ。

個々の人間の時間と能力には限界がある。
他プレイヤーの動向すべてを頭に入れて瞬時に判断してゲームを進めていくには、それぞれのプレイヤーの動きがランダムで「なんでもあり」だと頭がついていかない。
あるいはお互いに腹の探りあいや牽制のし合いばかりになり、ゲームの進行が非効率的になる。
だから社会というゲーム、経済というゲームでは慣習・法律・契約で相互の行動を縛り、互いの動きを単純化(それでも複雑ですけれども)しておく必要があるのだ。
相互に慣習・法律・契約を守ることで、互いの行動が予測可能なものになり、それによって社会というゲーム、経済というゲームで各プレイヤーが発展的な方向にエネルギーを使えるのである。

縁故主義ネポティズムが支配する社会や、縁故資本主義/crony capitalismが跋扈する経済だと結局相互のやりとりが複雑化しすぎたり、根回しや買収にコストやエネルギーがかかって社会や経済が発展しない。
例えばライバル社がエラい人に多額のリベートを贈っている場合、こちらはその倍のリベートを贈る、などをやりあっていると、本業のビジネスに割けるコストやエネルギーが減る。
その分経済ゲームの全体の発展度合は減るから、それだったらきっちり慣習や法律や契約を作って遵守し、余計なところにコストやエネルギー使わないようにしましょう、というのがルールを守る意義だ。
まあこれはマクロ視点の話で、ミクロ視点ではウラでこちょこちょやったりするんだろうけど、それは程度問題、人間社会の機微ってやつで、やり過ぎるとゲームから追い出される。

中国の経済発展とか見ていると縁故主義・縁故資本主義経済でも結構回るのかもしれない。

だが、フェアプレイ精神を愛し、互いにルールと契約を守り、「人の支配」ではなく「法の支配」を尊重し、その結果縁故にかけるエネルギーとコストを節約してきたアメリカが独立以来100-200年ほどで超大国化したことを考えると、「法の遵守」と「自由経済の発展」は密接な関係があるように思われる。
実際、途上国援助とかでも、先進国がまずやるのは法律家を送り込んで法の整備をすることだしなー。

縁故主義社会でのし上がろうとするのにいかにコストがかかるかは、オノレ・ド・バルザックの『ゴリオ爺さん』(新潮文庫)などもお勧めです。

というわけで、「忖度」が横行する社会や経済ってものはどうも発展のエネルギーがそがれてしまう。もちろんこの話はマクロ視点の話なので、個々のプレイヤーに戻ってミクロの視点にもどれば、忖度したりしてもらったりというのは人間が生きている限り続くだろう。

それにしてもこの時期に電子システム更新して古い記録消しちゃうって、エラい乱暴なことしますな。

 

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

 

なぜマクロン大統領の略奪婚はスキャンダル扱いされないのか考~あるいは元都知事殿へのささいなアドバイス。

先日フランスの大統領に選ばれたエマニュエル・マクロン氏の奥方ブリジット氏は25歳年上だそうで、マクロン氏が高校生だったときの国語の先生だったという。当時高校生のマクロン氏は既婚者だったブリジット氏に熱烈に恋し、最終的に略奪婚に至ったとのことだ。
日本で考えたらエラいことで、それが不倫だモラルに反するだなんてスキャンダルにならずに大目にみられたのはさすが恋愛大国フランス、なんてのが国内マスコミ報道の基調である。

しかしこのムッシュー略奪婚の話、実はフランス人にとって、これこそが理想の恋愛に映ったのではないかというのがぼくの仮説だ。歴史的に、フランスでは「不倫」こそが恋愛の王道だったからである。

さて、恋愛とはいったいいつ生まれたのか。

実はヨーロッパでは、「恋愛は12世紀の発明(発見)」と言われているそうだ(棚沢直子・草野いづみ『フランスには、なぜ恋愛スキャンダルがないのか?』角川ソフィア文庫 H11年 p.79。以下同書をネタ本とする)。
12世紀ころのヨーロッパは、がっちがちにキリスト教会によって支配されていた。恋愛感情なんて肉欲的なものは、けがらわしいものとして忌避されていたわけである。

それに対して、そうではない、恋愛は素晴らしいものだと高らかに歌い上げたのが“トゥルバドール”と呼ばれる詩人たちであった(上掲書同頁)。

<彼らの詩のテーマは、「まことの愛」(フィナモール。純粋な愛、誠実な愛とも訳される)。それは、騎士が貴婦人に捧げる女性崇拝の愛だった。
 しかし、それらの愛は報われることはない。なぜなら、騎士の愛の対象である貴婦人は、領主の妻など騎士より身分の高い既婚の女性だったからだ。当時、貴族の女性たちは、結婚してはじめて立派な貴婦人として認められた。トゥルパドゥールたちは、いくら愛を捧げても成就することのない、身を焦がすような苦悩や、にもかかわらず恋する者だけが味わえる至福の喜びをうたったのだ。>(同書p.80-81)

<この型の騎士道恋愛がフランス的恋愛観の原型である。つまり、フランス的恋愛のイメージとは、もともと「不倫」であり、結婚とは相入れないものだったというわけだ(略)。>(同書p.81)

 

フランスで暮らしたことはないので上掲書をそのまま信じるならば、フランス的恋愛の登場人物は基本的に「女一人に男二人」(同書p.83)。典型的には領主とその妻、そしてその妻に恋し焦がれる若き騎士、という三角関係だ。
領主とその妻の間には恋愛感情は無い。

<当時、結婚は、封建制度の下で家と財産を継承するための取り決めであり、自分で決めることはなかった。またキリスト教倫理の下では、一度結婚したら、やめることのできない義務だった。だから、恋愛と結婚は別、ということになる以外はなかった。>(同書p.81)

当時のフランス貴族社会では、<妻に恋心を持つ者は笑われた>(同書p.93)のだそうだ。wow。

この「女一男二」の恋愛関係というモチーフは、フランス文学やフランス映画の中によく見られるという(同書p.101-103)。なかでも、女一人をめぐって男同士がいつしか友情関係を結んでいくというスタイルはフランス人の心をとらえるようである。
カサブランカ」はアメリカ映画だけど、あれも「女一男二」のスタイルですね。嗚呼全ては時の流れるままに。

 

さてマクロン大統領の話にもどる。
日本だったら高校生が既婚者である25歳年上の学校の先生を略奪したりしたら眉をひそめられるだろう。ましてやそんな人物が総理大臣にでもなろうものなら、「いかがなものか」と叩く風潮になるのは予想がつく。
しかしフランスでは、才気あふれる若き美青年が、年齢と地位が上の既婚の女性に恋し奪ったというはむしろ正統派の恋愛スタイル、ととらえられたのではないかというのがぼくの仮説だ。

もちろん12世紀ころのトゥルバドールたちの話をもとに現代フランスを論じるのは、源氏物語をもとに現代日本を論じるようなもので無理がある。しかしながら時間つぶしに考えるにしては面白いと思う。

スペインには、「三十歳までは女が暖めてくれ、そのあとは一杯の酒が、またそのあとは暖炉が暖めてくれる」ということわざがあるという(北杜夫『どくとるマンボウ青春記』新潮文庫 H12年 p.285)。
ぼくは三十歳もとうに過ぎ、酒もたいして飲めない。仕方がないから暖炉のカタログでも取り寄せようかと思う今日このごろであるが、このマクロン大統領の略奪婚の話には興味を覚え、ついついネットで検索してしまうのだ。

年上の美人教師に恋の手ほどきしてもらってうらやまけしからんとか、いつまでも現役で愛におぼれたいとかそういうゲスな感情やスケベ根性ではない。
性愛は、この地上に生きる人と人との生命の交わりあい、崇高な営みだ。その人と人との厳粛な営みを、人間なるものの研究者として観察したい一心でぼくは今日もネットで検索し続けているわけである。

イノセさんも下手な言い訳しないでそんなふうに言っておけば、例のブックマークの件スルーできたのに。

 

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

 

 

患者が気分を害すとき‐よりよい問診のコツ。

「なんて失礼な!気分を害したので、悪いが帰らせてもらう!」
さっきまでニコニコと診察に応じていた患者さんが突然怒って席を立ったのはある日の午後。年のころなら八十代。背筋をピンと伸ばして明るく快活に話しをしていたその患者さんは、まるでアスリートのような速さで診察室から飛び出していった。ぼくは付き添いの奥さんに助けを求めるかのように目をやった。


医者の仕事というのは見ようによっては接客業、これでも結構気を使うのである。

初めての診察のときなど、お互いにどういう人物かわからない。特に病歴をきくときなど詳しく聞けば聞くほど相手のプライベートな部分に踏み込むわけで、患者さんが気分を害さないように、でもできるだけほんとのことがわかるように、医者は言葉を選んできいていくのである。

 

たとえば日々どれくらいお酒を飲むかをきくとき。

お酒の飲み過ぎ傾向の人というのは、なかなかほんとうの飲酒量を言ってくれない。

病院でお酒を飲み過ぎていると言えばばああだこうだ言われるので、飲んべえの人は医者に少な目の量を言うことが多い。
「だいたいビール1本くらいかな」。実際には毎日大量のお酒を消費していても、うるさく言われるのイヤさにこんなふうに申告する。
だからそんなときは、こんなふうにきく。
「なるほど。じゃあmaxだと、どのくらい飲めちゃいますか?」

 

飲んべというのは不思議なもので、飲み過ぎはよくないという気持ちと、たくさん飲めて誇らしいという気持ちが一緒に存在しているらしい。
だからmaxでどれくらい飲めちゃいますか?ときかれると、まんざらでもなさそうに「んー多いとビール5~6本はいくかな。それから焼酎飲んだり。日本酒一升開けちゃうこともあるよ」と教えてくれたりする。
御承知のとおりアルコールの多飲は内蔵や脳みそに悪影響を与えるので、病気を診断する手がかりがこれで得られるのだ。
実際の飲酒量を隠しがちな飲んべの方々に「maxでどれくらい飲めますか?」ときく方法はぼくのオリジナルではなく、とある女性医師がtwitterでつぶやいているのから学んだ。

診察の一環として学歴/教育歴をたずねる必要があるときもあって、これもまた気を使う。
もの忘れの診察では現状を評価するときに学歴/教育歴と比較して評価する。だが学歴/教育歴はとてもプライベートなことでもあり、雰囲気的にききづらいことがある。
だから「学歴/教育歴を教えてください」とききづらい時にはこう訊く。
「二十歳くらいのころ、どんなことしてましたか?」。

こういうふうにきけば、「中学出てすぐ、職人として住み込みで働いていたよ」とか「高校卒業して簿記を勉強していた」とか「大学では文学部だった」とかスムーズに教えていただくことができる。

この「二十歳くらいのころ、何してましたか?」ときくテクニックもまたぼく独自のものではなく、ずいぶん前に「臨床神経」という学会誌で読んだものだ。

心理的なストレスがきっかけとなって原因不明のしびれ感や痛みを起こしたり、頭痛の原因になったりすることがある。そんなときにどの程度ストレスがかかっているのかを把握するのだが、これもまたききづらい。
家庭のこと職場のこと、恋愛のことや金銭関係などなど、人には言えないからこそ身体の不調のきっかけになったりするわけで、そんなときにはこんなふうに言ったりする。
「○○さんにあてはまるかはわかりませんが、ストレスが不調の原因になることも結構多いんですよね。もしかして、なにかそういうストレスとかってあります?」
こんなふうに“呼び水”のように質問すると、患者さんはいろいろと話し始めやすいようである。

ストレスによる不調、と断定するのはなかなか難しいのであくまで参考にとどめておかなければならない。ストレスによるもの、と決めつけることでなにかほかの病気を見落としてしまうといけないのだ。だから一通り患者さんのお話を聞いた後で自戒を込めてこう言う。
「なるほど。まあストレスが原因で不調が起こることがあるといっても、ストレスの無い人ってなかなかいませんからね。あくまで可能性ということで」

最近は、そのあとに一言付け加えてみたりする。

「…ストレスのぜんぜん無い人なんて、松岡修造くらいですしね。アハハハ」

多くの患者さんはこれでくすっと笑ってくれる。その後の診察が多少なごやかになるので気に入っているフレーズなのだが、ちなみにこれはぼくの自己流のやり方だ。
こんなふうに、たかが問診でも細心の注意と最新のネタを駆使しながら日々診療にあたっているわけである。


冒頭に戻る。

なんであの患者さんは怒って出ていってしまったのだろう。なにかマズいことでも言っただろうかと振り返ってもわからない。
そして僕は途方に暮れる、と銀色夏生みたいな気分で奥さんのほうを見た。
「……ごめんなさい先生、うちの主人、松岡修造さんの熱烈な大ファンでして。憧れてるんです、心の底から」
なるほど、確かにこれはぼくが悪い。なにごとも、自己流のやり方を振り回してはいけない。

今日の格言。『反省はしろ。後悔はするな』(松岡修造)

*フィクションです。念のため。


 ↓問診を受ける場合にもたくさんのコツがあります。

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

 

経産省『次官・若手プロジェクト』の内容の「ツギハギ感」とその理由ー悪魔の代理人として。

2017年5月中旬くらいから経産省『次官・若手プロジェクト』のpdfが話題だ。

http://www.meti.go.jp/committee/summary/eic0009/pdf/020_02_00.pdf

改めて読み直してみたが、一言で言えば「ツギハギ感」が目につく。レベル感や問題意識がバラバラの資料を一見体裁よく整えた、という印象を受けた。

具体的に述べる。
シルバー民主主義をどう乗り越えるか、というのがテーマの一つだが、「シルバー民主主義」の単語はp.49になり唐突に出現する。本来ならば、シルバー民主主義の定義や弊害の事例を提示した上で、かくなる事情でシルバー民主主義は克服しなければならないと論じ、そのうえで方策を提示するという流れが一般的だ。


また全体の構成も「1.液状化する社会と不安な個人」「2.政府は個人の人生の選択を支えられているか?」「3.我々はどうすればよいか」と、1.現状認識→2.問題意識提示→3.行動の呼びかけ、の体裁をとっているが、繰り返し読むと視点の一貫性に乏しい。
1の部の主語は個々人であり、個々の人々がそれぞれの不安を述べている。

2では大項目では政府を主語としていながら語られるのは「定年後にやることがない」「死ぬ間際に無理して“生かされてる”」「母子家庭では貧困が再生される」「非正規雇用で不安定」「若者の無力感」という話と、その後突然「ネットでの情報は偏っている」的な話。それぞれの主語がバラバラなのだ。
3では「抜本的に」社会のありかたを変え、高齢者を支える社会から子どもを支える社会に変えましょうみたいな話が出てくる。

政府観、国家観も統一されていないのも改善点である。
政府や国家というものが、「社会保障制度により個人の選択をゆがめる」=社会保障過剰・過干渉みたいな話をしたかと思えば、「母子家庭の貧困」=社会保障過小・手が行き届かないみたいな話が出る。
「個人の選択をゆがめている我が国の社会システム」という口調からは政府・国家は個人の選択へ影響をできるだけおよぼさないほうがよいという思いを感じる反面、「多様な人生にあてはまる共通目標を示すことができない政府」というフレーズからは、政府は国民に共通目標を示すべきという思想を感じる。前者と後者は本来真逆の方向性のはずだ。

また、2.「政府は個人の人生の選択を支えられているか」パートの(1)の①~⑤の項目はそれぞれ対象人数や予算規模、ライフステージがバラバラなものを五月雨式に並べているのも気になる。それぞれに割かれた資料のボリューム感もちぐはぐだ。
例えばこれが対象人数やインパクトの大きいものから並べたり、個人の誕生から死というライフステージ順に並べたりするなど、より読みやすい資料になる並べ方はあるだろう。
また、ライフステージでいえば、人生100年時代には夫婦関係パートナーシップのあり方も変わることが予想される(リンダ・グラットン他『LIFE SHIFT』東洋経済新報社 2016年 第9章)。今までと夫婦関係・家庭のありかたが変わるというのは既婚者にとって非常にリアル感があるが、そこらへんの言及がないのは参加メンバーに既婚者が少なかったせいかもしれない。

上記のようなところが当該資料の「ツギハギ感」の具体例である。

さて、なぜこうした「ツギハギ感」が残ったのかを推測してみる。
仄聞するところによると、今回のペーパーは経産省の20代から30代の若手キャリアによってつくられたという。その形成プロセスが「ツギハギ感」のもとになっているのであろう。

おそらく今回の議論は、まずはブラウンペーパー法をもとに開始されたはずである。

ブラウンペーパー法はカレン・フェラン著『コンサルタントはこうして組織をぐちゃぐちゃにする』(大和書房 2014年)のp.78-80に出てくる方法で、アナログで<ハートに訴える>検討方法だ。ブラウンの大きな模造紙にペタペタとメモしたポストイットを貼ったり問題の構造を書きこんだりしながら違う部署の担当者同士で議論する方法で、カレン・フェランはこれを最も効果的なディスカッション方法だとしている。

 

経産省のこのプロジェクトはこんなふうに始まったのではないだろうか。
「えー今回、『次官・若手プロジェクト』ということで、局のカベを越えて、ぜひフラットに平場で議論できればと思います。日本の中長期的な政策課題を考えるというわけで……とりあえず参加者のみなさんが、どんな問題意識を持っているか言ってみようか」

「…やはり今問題になっているのって、格差問題じゃないですか。特に母子家庭の貧困問題とか深刻だし」
「終末期医療の問題もありますよね。日本の医療費って、多くが死ぬ直前に使われるんです。意識もないまま胃ろうとかで寝たきりのまま何年も病院に寝かされてるって人がたくさんいるんです」

「自宅で死ねないのも問題だよね。外国だとみんな自宅で死んでるのに」

「やっぱり高齢者にばかりお金が行ってるよね。若者は非正規ばっかりなのに」

「大学とかのポストもそうじゃないですか。ぼくの同級生も、大学に残ったのに任期付きポストばかりでいつも不安って言ってます」

「やっぱりシルバー民主主義だよねー」

高齢者はほら、票を持ってるから。そっちの政策ばっかりプッシュされちゃうんだよね。この間、(質)問取りでレクに行ったらさ…○△××で」

「あるある(笑)」
「えー収集つかなくなってきたので(笑)ちょっとここらへんで手を動かそうか。ポストイット配るので、それぞれの問題意識をどんどん書き込んでみて。時間は10分です」
(参加者、ポストイットに書き込む)

「じゃあ回収します。これをグループ分けしてみようか。んー『定年後の居場所がない』、『高齢者はテレビばかり見ていて非生産的』…ここらへんは<定年後>みたいなテーマだね。それから『終末期医療』『医療費をどこまでかけるか』みたいな話、子どもの問題、貧困の再生産…なんかでメモが一山できるね。ちょっとこれまとめてホワイトボードに書いてみて」
「これからどう進めます?」
「とりあえずさー、今出た5つの話をもうちょっと深堀りして情報を集めよう。仮決めでいいんで、担当分野決めようか。<定年後>について調べたい人、手あげてください。○○さん、△△さん、□□さんね。<母子家庭の貧困>、やりたい人は?☆☆さん?人数少ないけどだいじょうぶ?」

「ぜひこのテーマやりたいです!」
「じゃあ人数少なくて大変だけど、よろしく。<若者>は?◎◎くん、●●さん」

「大学の同級生とかに話聞いてみます!」
「じゃあよろしく。次回までに情報集めてもらって、簡単でいいんでそれぞれプレゼンしてもらおうか」
(以下略)

まったくの邪推であるが、こんなふうに会議は始まったのではなかろうか。
ここでいくつか落とし穴がある。
「フラットな関係性を意識しすぎるあまりリーダー/ファシリテーターの遠慮」「情報偏在によるバイアス」「ヒュームのギロチン」である。


続きはそのうち。
繰り返しになるが、今回の『次官・若手プロジェクト』に関し、作成と公表・拡散については強く支持する。内容をああだこうだいうのも参加メンバーの人格攻撃をしたいわけでも全否定したいわけでもなく、悪魔の代理人として議論を深めたいという一心である。
誰に頼まれたわけでもないのに我ながらしつこいが、そもそもからして悪魔というのはしつこいし頼まれもしないのにやってくるものなのだ。

 ではまた。

↓しつこく宣伝。

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経産省『次官・若手プロジェクト』の作成と公表・拡散を革命的情熱をもって熱烈歓迎する理由。

先日出回った経産省『次官・若手プロジェクト』について、ネット上では批判と絶賛が渦巻いている。

正直言って、仮に同じ完成度のものをどこかのシンクタンクコンサルタントが作ってもってきたらお金を払う気になるかと考えると、内容について絶賛する気にはなれない。だがそれでも、本ペーパーを作成したことおよび広く公表・拡散し議論に火をつけたこと自体については強く歓迎したい。


小宮隆太郎らによる『日本の産業政策』(東京大学出版会 1984年)によれば、日本の産業政策は敗戦から1980年代の間を3つに分け、それぞれの時期に傾向があるという。

1つ目は敗戦から高度成長に入るまでの復興期。復興期は、戦時統制経済の延長線上で、官僚統制型の経済運営が行われた。
2つ目は1970年ごろまでの高度成長期。高度成長期は、官主導・統制経済を志向する行政機構と民間の企業家精神-いわゆるアニマル・スピリット-とのぶつかり合いの時代。

3つ目は1970年以降の高度成長が終わり、石油ショックにゆれたあとの時代。この時代には行政機構は官主導の限界を感じつつ、技術・知識に対する補助や衰退産業への調整援助を産業政策の中心とした。

上掲書『日本の産業政策』が強調する点の一つは、敗戦後の日本の経済は「日本株式会社論」がイメージさせる官主導の疑似統制経済ではなく、<民間のイニシアティブとバイタリティ>によって牽引されてきた面が大きいということである。少なくとも同書の視点からは、敗戦後は官がすべてをお膳立てして民は活躍しないというのは大きな誤解だったということが言える。

その上で同書が指摘しているのは、<日本の産業政策として、(略)、かなり有効であったのではないかとわれわれが考えているのは、さまざまな審議会やビジョン行政および経済計画の作製・公表などを通じる情報の収集・処理・伝達の機構である。(略)これらの審議会を通じて各企業は他産業・他企業の将来的な見通しを得、それによってより明確な将来見通しを得ることができたこと、また、さまざまな政府計画によって、政府の将来経済見通しを理解し将来の政策の予想を樹てる(「樹てる」はママ)ことができたことは、価格機構とくにその情報上の限界を補完するものとして有効だったと考えられる(略)>(上掲書p.482)ということである。

要するに、政府やいくつもの企業が互いに相手の腹の探りあいをするのではなく、情報の収集・処理・伝達を官が行うことで、ステークホルダー同士が効率的にそれぞれの将来ビジョンを描くことができたのが、日本の産業政策のキモであった、ということだ。

(同書が出版されたのは30年以上前なので、日本の産業政策について新しい知見、別の見方が登場していると思われることに留意)

日本の産業政策の有効な方法が情報の収集・処理・伝達であったとすると、今回の『次官・若手プロジェクト』はその系譜に乗りうる。

今回の内容のステークホルダーは企業ではなく国民全員だ。経産省の若手の現状認識を「伝達」することで、各国民が次の生存戦略を考える一助となるわけである。

完成度が必ずしも完璧でない状態で公表・拡散に踏み切ったこともむしろ歓迎したい。
行政機構の仕事の流れはおそらく下記のような順番で行われる。
すなわち、

①現状を認識する(政策立案者は世界・日本・社会をどうとらえているか)→②あるべき姿と比較する→③現状とあるべき姿のギャップを埋めるべく政策として形にする→④現業サイドなどがアクションをとる

 

最悪なのがいきなり④が行われることだ。

国民もほかの行政機構も①から③を知らされてないまま、突然④のアクションが取られると大混乱だ。他者に寝耳に水で④のアクションが取られて国家として収集がつかなくなった事例として戦前の関東軍の諸行動を挙げたら突飛だろうか。半藤一利『昭和史1926-1945』(平凡社ライブラリー 2009年)なんか読むと、しょっちゅう現場の判断でとんでもないことが行われて、上層部が事後承認みたいな話が出てきてくらくらしてしまう。
それに比べたら①、②の段階で公表・拡散してくれたほうがはるかに望ましい。適切な批判や指摘を聴きいれて修正・バージョンアップしてくれるならという条件付きだが。

立派な政策として強固なものを打ち出す前に、①、②の段階で世に問うてくれたほうがよいのはなぜか。
われわれがこれから迎えるのは急激な変化が加速しつづける時代、「アッチェレランド」だからだ。
「アッチェレランド」は音楽用語で「次第に早く」の意味で、科学やテクノロジーの加速度的な進化・変化に伴い、人間の生き方や社会のありかたの変化もどんどんと加速し続ける時代のことである(英『エコノミスト』編集部『2050年の技術』株式会社文藝春秋 2017年)。

 

変化が加速し続ける時代、アッチェレランドでは誰も先のことなんかほんとうにはわからない。変化が変化を生み、事態は変わり続ける。
そんなアッチェレランドの時代の生存戦略はおそらく、「β版の思想」が必要となる。

工業製品が故障や不具合があるまま販売されることは許されないのに対し、ソフトウェアは未完成品、β版の状態からバンバン市場に出回る。

なんの不調もない完璧なソフトウェアを作り上げてから市場に問うより、多少荒削りでも市場に出してユーザーに使ってもらい、積極的に改善点を指摘してもらうのが「β版」だ(あってる?)。

これから社会全体が「アッチェレランド」に入れば、時間をかけて完璧な政策を作ってから世に出しても間にあわない。であれば、荒削りのプロトタイプのまま世に出して、問題点・改善点をどんどん指摘してもらって手直ししながら政策を練っていったほうがよいということになる。
今回のペーパーも、健全な批判・指摘が受け手側である国民サイドからなされ、それを取捨選択しながら取り入れられることができれば、「β版の思想」の体現となるだろう。

実際、もういい加減、無謬性の神話を降ろす時期ではないだろうか。
「私、失敗しないんで」という無謬性神話は、官も民も、ぼくのいる医療業界も、みんなを苦しめる。
医療業界では20世紀の終わりに米国医療の質委員会が『to err is human 人は誰でも間違える』と宣言して、医療ミスは起こり得ることを前提にシステムを組み立てることを提言した(が、いまだに日本の医療業界には浸透していない気がする。「ヒヤリハット」はミスした罰や見せしめに書くものじゃないはずだ。閑話休題)。

 

無謬性神話は行政においても不経済でもある。

鳥取県知事片山善博氏は著書の中で固定資産税の課税評価についてこう述べている。
<大切なことは、人間のやることには間違いがありうるということを前提にして、其の間違いを速やかに直す仕組みを用意しておくことである。(略)
 残念なことに、市町村によっては固定資産評価審査委員会に対する不服申し立てが出てくることを極端に避けようとする姿勢が見られる。しかし、不服申し立ては避けるべきものではなく、むしろ歓迎すべきものだと観念しておいたほうがよい。というのも、大量の固定資産の評価を一つひとつ全て間違いなく処理するためには、幾重にもチェックして完璧を期すほかはないが、それには膨大なコストを要することになる。それよりも、そこまでコストをかけず、もし間違いやミスがある場合には納税者からそれを指摘してもらう仕組みにしておいたほうが、よほど経済的なはずである。>(片山善博市民社会地方自治慶應義塾大学出版会 2007年 p.50-51)

今回の経産省『次官・若手プロジェクト』も健全な批判・指摘があればそれをどんどん取り入れていただきたいし、だからこそぼくは人格攻撃もプロジェクトそのものを全面否定も大反対なのだ。

今回の『次官・若手プロジェクト』に対して痛烈な批判をしている一人が常見陽平氏であるが、氏のスタンスに抵抗があるのはそんな理由だ。

 

「民主主義体制において、政府というのは<彼ら>ではなく、<我ら>なのです」、とヒラリー・クリントンは言った(『村中みんなで』あすなろ書房 1996年 p.321)。
脱官僚」の旗印のもと官僚機構を嫌悪して全面否定してもものごとがうまく回らないことを、ぼくたちはしばらく前に学んだはずだ。
政府が<彼ら>ではなく、<我ら>であるならば、無暗やたらに敵視するのは最後の最後までとっておくべきだと思う。
それよりもβ版の段階で現状認識やあるべき姿を共有し是々非々で議論を行い、よりよき共通の感覚を形成し、そうして作られた新たな共通の感覚=コモン・センスに根差した政策が練られることを期待したい。

それにしても、やはり『次官・若手プロジェクト』を公表・拡散したのは素晴らしいことだと思う。黙ってれば余計なことを言われないで済むのに、問題提起のために批判も覚悟の拡散だったのだろうか。
あるいはもしかして、総理のご意向が忖度でもされたのだろうか。最近忖度されやすいみたいだし。

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悪魔の代理人として経産省『次官・若手プロジェクト』を読む。

日本に必要なもののひとつに悪魔の代理人、devil's advocateというのがある。
ある考えについて議論や検討を深める目的で、わざと批判的なことを言ったり反対意見を言ったりする役回りの人のことだ。 

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先般話題になっている経産省『次官・若手プロジェクト』を、悪魔の代理人となって読んでみた。『次官・若手プロジェクト』pdfはこちら↓

http://www.meti.go.jp/committee/summary/eic0009/pdf/020_02_00.pdf


悪魔の代理人は議論を深めるための役回りなので、誰かを人格攻撃したり『次官・若手プロジェクト』ペーパー自身が無意味と言いたいわけではないことをあらかじめ念押ししておきたい。

まず第一印象は『頭のいい人たちが、エラい人たちに「若い人たちは頼もしいね」と言われるために作った見栄えのいい資料』という感じ。
エラい人に頭を撫でられるためには、エラい人たちが感じていること、思っていることを先回りして察してあげて、一見新しい風の形式で発表してあげるとよい。
間違えてもエラい人たちの心の中にある既存概念をおびやかしてはいけない。

「俺たちは定年越えてもがんばってるのに高齢者の多くはテレビばかりみていてケシからん。それもこれも全部国の社会保障が甘いせいだ。これからはグローバルな世の中だよ、キミたち。インターネットとかもっと使って、なんかこう抜本的に社会のありかたを変える必要があるんじゃないかね?幸福ってのはお金じゃないしね」という、功成り名を遂げた年配のエラい人の心象を汲んであげてカタチにしてあげれば喜ばれるというものだ。

だいたい頭のいい人っていうのはエラい人好きである。
『次官・若手プロジェクト』のメンバーの過半数はそういうエラい人好きなのだろうと邪推する。資料2ページ目の意見交換相手の顔ぶれはみな「○○教授」とか「○○長」とかいう大御所級の人々ばかりで、今ギラギラと油ギッシュに活動しているような、「エネルギーがあふれるけど賛否両論、敵も多いけどなにかやらかしそうな人」はいない。
ヒアリング先からして無難な感じで、「なんでそんなヤツに話し聞いたの?」みたいに批判される恐れのない相手ばかりのセレクトであろう。

新しそうに見えて新しくないというのもキモだ。
本当に新しい概念というのは、聞く人を不安にさせる。エラい人に頭なでてもらうには、一見新しいけど実はそんなに新しくないくらいのレベルの話がよい。
社会保障制度が個人を甘やかす、なんてのは80年代のサッチャーレーガンのころから人気のある見方だし、さらにさかのぼれば1957年のアイン・ランド『肩をすくめるアトラス』にたどりつく。
麻生さんあたりもその手のことはよく言いますね。

子どもたちへ投資、という話も、どういう立場で言ったかを除けば新しくない。阿部彩『子どもの貧困』(岩波新書)が出たのが2008年だ。
p.65の高齢化するアジアの話も、大泉啓一郎氏が2007年には『老いてゆくアジア』(中公新書)で問題提起している。
民が担う公という話も、特定非営利活動促進法NPO法)が施行されたのが1998年のことだし、民主党政権時代にはずいぶん「新しい公共」みたいな議論がされた。

別に新奇性だけがすべてではないが、歴史的経緯を知らないで「新しいことを提案します!」みたいに論ぜられていたとすると残念だ。

資料p.8の「2.政府は個人の人生の選択を支えられているか?」に列挙された①~⑤の各項目も、レベル感やレイヤー、規模が異なるものを並列して平気なのも気になる。コンサルに「これってMECEなの?」と冷笑されかねん。
たとえば①居場所のない定年後の問題と⑤活躍の場がない若者、の問題は(雇用としてとらえると)トレードオフ、両方いっぺんには解決できないかもしれない。
シニアを雇用延長するならその分若者の席は減るし、それがたぶん露骨に起こっているのがアカデミアの場だろう。任期付教官ポストのいかに多いことか。

論理展開、因果関係の詰めの甘さも気になるところだ。
p.32-33あたりも、「若者は社会を変えられると思っていない」ことと「新入社員の働く目的が楽しい生活をしたい」ことが因果関係なのか相関関係なのか無関係なのか詰めないまま雰囲気で流している。

それからなによりも残念なのは、経済産業省なのに「パイを増やす」論点が一つもないことだ。高齢者から子どもへの再分配の方向性を変えるってのは総論賛成な話だろうし、少子高齢化の日本でこれ以上経済成長の余地はないという気分はよくわかるけど、経済産業省が「パイの拡大」の話をしないで誰がするんだ、という気がする。
スマートグリッドの話も最近聞かないし、クールジャパンでインバウンドでウェーイって話も次の盛り上がりはないしなー。

資料を最後まで読んでも具体的な政策は出てこない。なんとなくいいこと言ってる気がするけどよく考えるとあたりまえ、みたいな、『あたりまえポエム』的な読後感のペーパーだった。
たぶん賛否が分かれるような、エッジの効いた提案は引っ込めて資料を作ったのだと思う。ぜひとも具体策盛りだくさんの、野心的な第二弾を期待したい。

 

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男と女-東京03風に。(R)

「それはさ、お前がオスとして相手を惚れさせてないってことなんじゃないの」
居酒屋でOさんの到着を待っている時のこと、隣の席から話し声が聞こえてきた。
先輩ビジネスマンと若手の後輩らしい。

「でも先輩、オレの嫁さんなんだからオレだって気持ち分かって欲しいっすよ。
そりゃ会社辞めるのは不安だけど、せっかくのチャンスだし、妻に反対されるとかはマジきついっす」
転職か独立の相談らしい。
先輩が言う。
「だからさ、さっきから言ってるじゃん。
嫁さんがお前のやりたいことに反対するってのはさ、お前が嫁さんのことをオスとして惚れさせてないって証拠なんだよ」
「力づくで言うこと聞かせるってことすか?」
「バカ、全然ちげーよ。お前ね、分かってなさすぎ。
 あのな、男だってそうだろう。
よく女に騙されて会社の金使い込むやつとかいるじゃん。
まあそれは悪い例だけどよ、あれみればわかるけど、男も女も惚れた相手だったらとことんついていく訳だよ。
だからさ、お前のカミさんがお前のやりたいことに反対してるってのは、お前がオスとしてカミさんをベタ惚れさせる努力をおこたってるってことなんだよ」
隣で盗み聞きしてるこちらまで叱られている気がして、僕は思わず縮こまってしまった。

 

「な、わかったか。わかったらいいから飲め!」
「…わかったっす。でも先輩、一つだけ言っていいっすか」
「なんだよ」
「すげー勉強になったっすけど、…先輩、そんなこと言っていまだ独身じゃないっすか」

 

嗚呼、日本の夜明けは遠い。
(FB2015年5月8日を再掲。「先輩」は東京03の角田氏の雰囲気でお読みください)

 

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