居酒屋談義:「男は総額 女は個数」仮説

まずは居酒屋にいると思っていただきたい。

ビールの1,2杯でも飲んで軟骨揚げでも食べて、そのあとハイボールも飲んでいる間に店員がサラダの皿を下げに来て、ちょっと焼うどんとか食べたいとか言いだすヤツがいるくらいのタイミングだと思っていただけるとありがたい。
エビデンスとか科学的合理性とか、人によってはポリティカル・コレクトネスとかがどっかに行き始めたくらいのアルコール血中濃度だと思っていただけるとなお助かる。

誰かがこう切り出す。

「それにしてもどうして男/女ってさー」。

それくらいのレベル感の話。

 

すいぶん前にスポーツ新聞で読んで、その後の人生に結構影響を与えていることがある。スポーツ新聞なので読者の大半は男性で、こんな話だ。

 

仲のよい女性がいるとする。彼女でも奥さんでもいいけれど、常日頃からちょっとしたことを助けてくれたり、ちょこちょこと何かしてくれたりする。

あなたがもしお礼やお返しをしたいと思ったとき、「いつもお世話になっているから」と、どかんと大きくお礼をしようとしてはいけない。

最高級のお店のディナーや宝飾品などのプレゼントで何万円を費やしたとしても、あなたは「いつもお世話になっているぶん、これでお返しができた、これでチャラだ」と思ってはいけない。

なぜなら、女性は10回も20回もあなたのことをケアしているにも関わらず、あなたは1回だけしかお返しをしていないから。女性にとって、1回は1回。総額何万円のお礼を1回しただけでは、イーブンにならないのだ。

人間関係のお礼やプレゼントのやり取りにおいて、男は総額でいくら使ったかで評価しあうが、女は回数・個数やどれくらい頻繁かで評価しあう。「男は総額 女は個数」なのだ。

 

こんな話を読んで、改めて周りを見回してみると妙に納得できることに気づいた。

昔から、「色男よりマメ男」というように、マメな男というのはよくモテる。

思いのこもったラブレターを便箋何枚にもつづっていきなり送りつける男より、「元気?」とか「何してる?」とか何にもなくてもちょこちょこメールや声かけしてくる男のほうがモテる。年に1回、十万円もするプレゼントをする男よりも、毎回毎回ちょっとしたスイーツを差し入れてくる男のほうがモテる。

この歳になるとわかるが、前者は重たすぎるし、ちょっと怖い。だが、男は、若いうちはこのことに気づかない者が多い。気づいた少数者はモテてますな。

 

「男は総額 女は個数」で評価するのはなぜか。

冒頭に戻って、居酒屋でほろ酔い程度の話であることを思い出していただきたい。ポリティカル・コレクトネス、通称ポリコレ棒はいったんわきに置いて、「酔っぱらいの言うことはしょーがねーなー」くらいの感じで聞いていただければ幸いだ。

居酒屋談義レベルで言えば、その昔、男は狩りに出てマンモスを狩り、女はムラで家事と子育てをした。

男はヤリで一撃必殺で大きなマンモスを仕留める必要があったから、一点に集中し、できるだけ大きな成果を上げることに長けるよう進化した。大きな成果=総額、が男にとっての評価基準となった。

女はたくさんの乳飲み子をいっぺんに面倒みなければならないから、同時にいろんなことをこなすことに習熟し、いくつのタスクがあるか把握するのがクセになった。すなわち、何人の乳飲み子がいるか、個数が女にとって一番大事なことになった。

その進化の果てに我々がいて、だから「男は総額 女は個数」で評価しあうのである。…イタタ、居酒屋談義だからポリコレ棒でポカポカ殴るのはやめてください。

 

「男は総額 女は個数」仮説はなかなかイケるんじゃないかと思うのは、夫婦の家事分担のトラブルのときだ。

夫が「俺はこれだけ稼いできている(=総額)」と言えば、妻は「あたしは洗濯や料理、子どもの送り迎えに掃除とかたくさんいろんなことをしてる(=個数)」と返す。前提となっている評価基準が違うのもあって、話はすれ違う。こじれればこじれるほど、「掃除とかいってもそんなに量もないじゃん(=総量)」「あなたは仕事だけしてればいいからいいわよね(=個数)」と互いの非難の応酬となる。

そんなとき、「男は総額 女は個数」仮説を思い出して、互いの評価基準が違うせいで話がかみ合わないのかもしれないと冷静になっていただければ嬉しい。

 

ま、つまりあれですよ、なにが言いたいかっていうと矢野顕子ですよ。
ほらあるじゃない、あれだよあれ、なんだっけ、えーっと…そうそう、こういう歌詞。


<男もつらいけど 女もつらいのよ

友達になれたらいいのに

くたびれる毎日 話がしたいから

想いきり大きな字の手紙 読んでね>

えーっとなんだっけ。結構飲んだねー。

…すみませーん、お勘定!

あー、『ラーメンたべたい』。

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上原ひろみすごいなー。

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魁!甲子園ーなぜ高校野球は真夏の炎天下で行われるのか(R)

こう蒸し暑い日が続くと、嘘でもつかないとやっていられない。

 

それにしても、この暑さのなかで野球をやっている高校球児には頭が下がる。
なにもこんなに暑い時期にやらなくてもいいのに、と思うのだが、高校野球にはこの時期をずらせない理由がある。
実は、甲子園と暑さとは切っても切れない関係にあるのだ。

 

以下、民明書房の本から引用してみたい。

 古代中国の孔子炎(こう・しえん)が、国と国との全面戦争を避けるために考案した代理戦争が野球であることは意外に知られていない。辺境の州や国から選抜された勇士たちが、他国を射止めるべく戦ったのが野球の始まり、辺射州暴留(ベースボール)なのである。


 呪術と武術を極め、甲軍は魔力を留めた暴れ球で敵を殲滅せんとし、乙軍は限界まで耐えた後に腰から抜いた棒に怒りを込めてその暴れ球を打ち返す。魔運土(マウンド)、暴留(ボウル)、抜怒(バット)などの名前にそのなごりを留めているのだが、今ではその由来を知る者はまれになった。
 なにを隠そう、相手を死に追いやる死球(デッドボール)こそ、本来の野球の姿であったのである。
 

 勇士たちは流血してもそれを止めることなく死合(しあい)を続け、狂気の中、己の血を捨てているようにさえ見えたという。
 力の差がありすぎる場合最後まで死合は継続できず、出血多量のため敗者の体は凍ったように冷たくなっていき、凍弩(コールド)負けを宣言された。
 この互いの命をかけた死合は、熱された超巨大な中華ナベの上で行われた。
 冷酷非情なこの競技場こそ、捨血愛無(ステジアム)である。
 
 これが炎天下で行われる高校野球の起源であることを知る者もほとんどいなくなってしまったのは、なんという歴史の皮肉であろうか。

引用以上(民明書房刊 『激突!男の捨血愛無ー孔子炎から甲子園へ』)

嘘です。念のため。

 

まあそれは冗談だが、さる筋によると、猛暑の中での試合については毎年激論が繰り広げられるらしい。

若手改革派「○×役員!甲子園の開催時期のことですが、球児の体調も考えてここは前か後にずらすべきではないでしょうか」
古株役員「○×役員だ~?さんをつけろよデコ助野郎!!
おれたちはなあ、泣く子も黙る孤烏夜烈夢(こうやれん)だぞ。暑さがなんだ、湿度がなんだ!
ここで引いたら先輩たちに顔向けできねえんだよ!
元気があれば何でも出来る!!オレたちは空調の効いた役員室で見ててやるから、見事散ってこい!!」

嘘です。念のため。

マジな話、犠牲者がでる前に炎天下での過酷な試合日程などは考え直したほうがいいと思う。被災地復興の祈りを込めて、決勝戦以外を東北地方でやるという手もあると思うんだけどなあ。
(FB 2013年8月17日を再掲)

 

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酒飲みがどんなに酔っぱらっていてもきちんと家に帰る理由(R)

えー、昔から『酒は百薬の長』なんて申しまして、上手につきあえばこれほど結構なものはございません。
話ははずむ、つまみはおいしい。一人でちびちびと飲むお酒なんてものもまた、オツなものでございますな。
つきあいかたを間違えるとこれはまた大変なものでございまして、『百薬の長』ならぬ『百厄の長』なんて具合になってしまいます。

 

お酒飲みというのはまあ不思議なものでございまして、どういうわけかみんなどんなに酔っぱらっていてもキチンと家に帰ります。
ふらふらしながらもどうにかこうにか自分の家にたどりつきまして、記憶がなくなってもちゃーんと自分の布団で寝ている。
小難しい言い方をすれば『帰巣本能』なんて言いますんでしょうか、どんなに酔っぱらっていても自分の巣に帰っていくんですな。

 

あれはまあどういうわけかっていうと昔から不思議に思っていたんでございますが、最近ふと気がついた。
どうやら酔っぱらって『帰巣本能』が働くような人たちだけが子孫を残して来られたんじゃないだろうかってことでございます。

 

人間の進化の過程ってえものにおきまして、おそらくってえと酔っぱらって山に登りたくなるような『登山本能』や酔っぱらうと海に飛び込みたくなるような『ダイブ本能』をお持ちの方ってえのもいらっしゃるんでしょうが、そうした人たちってのはどっかでやらかしてしまって、よっぱらって山や海から帰れなくなって歴史から抹殺されてしまった。そうするとそうした『登山本能』や『ダイブ本能』をお持ちのかたの遺伝子ってえのは残されません。


かつていらっしゃった様々な『本能』の遺伝子はこうやって淘汰され、酔っぱらったあとモーローとなりながらも自分の巣に帰りつく『帰巣本能』をお持ちの酔っぱらいの方々が、子子孫孫と生き残ってきた次第じゃあないでしょうか。

 

落語の世界でもそうしたお酒好き&『帰巣本能』の遺伝子をお持ちの人の話ってえのはあるもので…

 

ただいまっ、今帰りました。うい~酔っぱらっちゃった…
(以下『親子酒』)
(FB 2015年8月29日を再掲)

 

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

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美しく歳を取るということープレジデント誌『セクハラにならない誘い方、口説き方』に想う。

Twitterで話題だったので怖いもの見たさで買ってみました『プレジデント』2017.7.31号。何が話題かと言うと「セクハラにならない女性部下の口説き方」という記事。

弁護士の監修がついているにも関わらず(いや監修がついているからなお)、読後感のたいへん悪い記事だった。

<上司が異性として興味を持っている部下に、いきなり1対1で夜の飲み会に誘うのは、後からセクハラとして認定されやすい。>(『プレジデント』2017.7.31号 p.55。以下同頁)と、冒頭の設定から今どきどうなのって書き出し。

そのあと続くのも、セクハラに認定されないためには<仕事にかこつけず(誘いの)声をかける>(カッコ内は筆者補足)、<(2次会には)コスパの観点から、ジョナサンやすしざんまいなどをお勧めしたい>、<事前にホテルを確保しておくのであれば、シングルとセミダブルの2部屋を予約する。この方法であれば、「別々の部屋に泊まろうと思っていた」と言い訳ができるし、口説くことに成功した場合はセミダブルの部屋を利用できる。>、<またチェックインする前に、一緒に近隣のコンビニでお酒を買うのも役に立つ。一般的に、2人でホテルの同じ部屋に入り、そこに一緒に買ったお酒を持ち込むという行為は、「合意の成立」を推認する重要は判断要素となる。>と常に言い訳、逃げ道を作りつつ、なんとかしてなんとかしようというセコい感じがあふれ出ている。なんていうか、「粗でなく野でなくひたすら卑」って感じだ。

 

こんなんだったらシンプルに、「惚れた!つきあってくれ!」と真正面から玉砕しにいったほうがいっそ清々しい。まあでも「プレジデント」編集部はそうは思わないからこそこの記事を載せたんだろう。よく載せましたねこんなの。

 

1か月ほど前に、「ちょいワルジジ」の勧めというのがちょこっと炎上した。
美術館に一人で来ているうら若き女性に、「この画家は長い不遇の時代があったんですよ」と付け焼刃の知識で声をかけ、オジさん好きの女子を“落とせ”というものだった。

「ちょいワルジジ」になるには美術館へ行き、牛肉の部位知れ|ニフティニュース

この記事読んで思ったのが、もし自分が美術館好きの女子だったら、こんなことされたらブチキレるだろうなーってこと。知るべきなのは牛肉の部位じゃなく、恥だよねえ。

ある一定の年代以上の日本人男性には、どうもこういうところがよろしくない人がいますな。自分を安全圏に置きつつ、上から教えてあげる的な絡め手で、その気はないんですよという風をよそおいながらタナボタ的に性的関係に持ち込もうというイヤラシサがある。

そんなねー、タナボタ式にいい話が降ってきて、なにかあってももめずにあっさり相手が身を引いてくれるなんてないですよ、島耕作じゃないんだから。こういう記事読んで真似してもしうまく行かなかったら「ボクたちはみんな島コーになれなかった」という小説書いたりして。正直読んでみたい。

まあ「マンスプレイニング=女性に対して上から目線で教え導くフリをしてマウンティングする」って英単語もあるくらいだから、こういうヤな感じの男性ってのは日本だけじゃなくグローバルな存在なのかもしれない。ヤなグローバル化だな。

 

イヤなオッサンたちの話ばかりでは気分が悪い。

欧米だと、歳をとるなかで「人間として完成を目指す」「魂の成長を目指す」みたいなことを言う人がいるが、日本だとあまりそういうのはないのかなあ。もっとも欧米にも変なオッさんはたくさんいる。よその国の大統領の悪口を言うもんじゃありません。メイク・アメリカ・グレート・アゲイン。

なにはともあれ、否応なく大人の階段を上る40代男子(男子じゃないけど)としては、『プレジデント』誌の記事や「ちょいワルジジ」を反面教師として、どうやったらカッコいい大人の男性になれるか、どうしたら美しく歳を取れるかを研究したいところだ。

 

思いつくまま美しく歳をとったカッコいい大人の男性像を述べてみる。
まずは映画「セント・オブ・ウーマン」のアル・パチーノ演じるスレード中佐。盲目の元軍人なんだけど、若きレディを相手にタンゴを踊り、感謝祭の休暇中に自分の面倒をみるアルバイトの名門高校生を守るために格調高いスピーチをかます。スピーチのシーンは思い出すたびに涙が出そうになる。

 

映画「イル・ポスティーノ」で出てくる老詩人もカッコよかったなあ。ナポリ湾の島で、郵便配達人の青年と友情をはぐくむのだ。

実在の人物で言えば以前にお会いしたM教授も素敵だった。
IT分野の第一人者のお一人だが、自分の研究分野のことをキラキラとした目で雄弁に語り、若手の質問に真摯に答え、偉ぶるところはなく、60歳を過ぎてなお好奇心のかたまりのような方である。

 

スレード中佐と老詩人とM教授と、「プレジデント」と「ちょいワルジジ」との決定的な差は何か。それは、相手の肩書や属性によって態度を変えるかどうか、相手と対等に人間対人間として向き合うつもりがあるかである。

「セント・オブ・ウーマン」のスレード中佐は傲慢で威張り屋で嫌われ者だ。しかし自分と魂が触れ合った者に対しては、さえない高校生だろうが対等の存在と認める。逆に自分が認めぬ者に対しては高校生だろうが名門高校の校長だろうが容赦なく糾弾する。

「イル・ポスティーノ」の老詩人もまた、無学な若者であろうとそんなことは関係なく郵便配達人を友とする。
M教授もまた、相手が若者だろうと門外漢であろうと、分け隔てなく議論に取り組んでくれた。

それに対し、「プレジデント」の記事は、「部下」「若い女のコ」にはここ抑えとけばセクハラって言われないだろうという一種の卑しさ、相手を一個の人間ではなく部下や若い女性という属性でタカをくくるようなところがある。「ちょいワルジジ」も然りだ。

歳を取るのは簡単だ。だが、美しく歳を取るのは容易ではない。アンチ・エイジングだけではなく、ビューティフル・エイジングも大事なのだ。

あ、そういえば、美しく歳をとったカッコいい大人の男性がもう一人いた。高田純次氏である。
ちょいワルジジ」ネタが炎上したときにこんなコメントをネットで見かけた。

曰く、高田純次になら声をかけてもらいたい、「この画家の生涯、ご存じですか?ぼく、ぜーんぜん知らない」とかテキトーに声をかけてもらったら、心底シビれると思う。

心より賛同する。

付記)プレジデント誌の記事、気になってtwitterとかで評判をチェックしてるんだけど、その中で「メールで誘わないのは証拠を残さないためなんだろう」という指摘を見かけてさらに陰湿さを感じた。記事には「メールで誘わないこと」とかは書いてないけど、たぶんその指摘はあたってると思う。

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

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今こそ考えたいエロマンガと表現の問題

<人生の3分の2はいやらしいことを考えてきた。>

週刊文春のコラム<みうらじゅん 人生エロエロ>はいつもこうして始まる。

人生の残りの3分の1でゆるキャラを事業化したり仏像大使を務めたりしているのだから、みうらじゅんというのはすごい人である。

 

先日、思わぬ時にエロマンガの現物(の写真)を見てびっくりした。思っていたよりもずっと美しい。

エロマンガのことを知ったのは小学校高学年か中学校のときだろうか。そのころはエロマンガという文字を見ただけで誰もがコーフン状態で、いつの日かホンモノのエロマンガを見るんだなんて意気込んでいたが、実際にエロマンガの現物を見ることができた者はほとんどいないんじゃないだろうか。
だって遠いんだもの、エロマンガ

エロマンガはオーストラリアの横にある島で、人口は約2000人ほど。バヌアツ最大の島である。
つづりはErromangoで、最近では「エロマンゴ」とか「イロマンゴ」と表現されることが多いようだ。

なにやらエロティックでコミカルな響きなので、古来より日本の悪ガキ・アホ男子に大人気の島名である。

 

こうした、日本語で表現されると面白く響く外国の地名や人名というのはたくさんある。

エロマンガに続いて有名なのはスケベニンゲン。オランダのビーチである。インドネシアキンタマーニ高原も有名だし、チェコにはフルチーンという町もある。今回の調査で知ったが、アメリカ・ミシガン州にはボインシティという街があって、そこにはボイン川という川が流れている。

下品な話題と腹を立てるかたにはニュージーランド旅行をお勧めする。そこにはオカタイナ湖があなたを待ち受けている。

逆に日本語の地名などが他国の人々にとって可笑しく聞こえる例もある。
最近有名なのは「近畿大学」で、英語話者にとっては「kinky univ.=奇妙な、変態な大学」と聞こえることがあるとか。
Kさんからは「関東平野」も結構ヤバいという情報が寄せられた。平野は「hair」だそうで、さらに前半部が特別ヤバいらしい。
遠藤周作はフランスに留学しているときに食事中、「日本語ではムシューをなんといいますか?」と話題を振られて、「“閣下”といいます」と答えて子どもたちの爆笑を買ったという。フランス語でカカは排泄物の事を指す。「長靴下のピッピ」は大丈夫かなー。
スワヒリ語圏にいけば「熊本」は大変卑猥な言葉になるし、イタリア人料理人に日本では「カツオ」で出汁を取ると板前さんが説明したら大爆笑されたとイタリア語通訳・田丸公実子氏のエッセイにあった。

世界中に、他国語だと卑猥な言葉やののしり言葉の地名や人名があふれているのは偶然だろうか。いや決してそんなことはない、必然なのだ、と指摘したのはロシア語通訳でエッセイストの故・米原万里氏である。
卑猥な言葉、侮蔑の言葉というのは、現在は文化的に抑制されているだけで、もともと生殖にかかわる身体的部位や排泄物に関わる言葉が多い。

生殖・性的行動・排泄というのは人間の生存にとって必須・根本的なことだ。

そうした人間の生存にとって必須で根本的、基本的なことやものの名前というのは、どの言語においても相当原初のころから誕生する。

言語の原初のころに誕生する言葉は、シンプルで短い音節の、多少話し手や聞き手が不正確に発音しても意味が成立する音になる。

シンプルで短くて、多少ゆらいで発音されてもそのものやことが想起されるような表現が生殖・性的行動・排泄に関わる単語として成立し、それがいつからか卑猥・侮蔑の表現に変わって行く。

シンプルで短い音のつながりというのは、他文化・他言語でも容易に見つけることが出来るから、変な外国の地名や人名というのは見つかりやすいのである。
もっとも、単純に面白いからみなが競って見つけるし、聞いた方も記憶に残りやすいというのももちろんあるであろう。

それでは下記URLよりハフィントンポスト特集<世界の「変な地名」 スケヴェニンゲンからアフォヴァッカまで>をお楽しみください!
(本日の表題は『今こそ考えたいエロマンガ島と表現の問題』の間違いでした。謹んでおわび申し上げます)

http://www.huffingtonpost.jp/2015/06/13/world-strange-place-name_n_7575506.html?ncid=engmodushpmg00000003

 

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

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radioclub.style第5回、アップロードしていただきました!

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6月19日放送の渋谷クロスFM高橋ひろかつのradioclub.style』、アップロードしていただきました!
助っ人は湘南バリアフリーツアーセンターの 松本 彩さん!
ゲストはプロビティ・グローバルサーチ株式会社代表 高藤 たかとう 悠子 さん!テーマは「幸せと仕事」!!!
ニコニコ動画にログインしなくてもご視聴できます。
ぜひぜひご視聴ください!!!

radioclub.style05 ラジオ/動画 - ニコニコ動画

仕事に必要な知恵はすべて公園の砂場で学んだ

男たちがうつろな目をしてただもくもくと土を掘り返している。

「ダメだよ、ちゃんとやって!」、時折聞こえる叱責。

ここは帝愛グループの地下帝国ならぬ、日曜日の公園の砂場。

 

日曜日の公園の砂場では、子どもたちが楽しそうにシャベルで穴を掘ったり水を流したり飽きることなく遊んでいる。その横には「やらされてる感」あふるるパパたちがいて、隙あらぱサボろうと死んだ魚の目をしながらただ機械的に砂山を作らされている。

パパたちも楽しくないわけではないのだ。

砂場にきてすぐのパパなんかは比較的やる気にあふれ、「よーしパパ砂山つくっちゃうぞー」とか言ってる。もう見てらんない。

お前らな、シャベルやるからこの砂山作れと。そんな言葉が先着パパたちの心をよぎるのである。

 

子どもたちは砂場についてしばらくすると<ボス>と化す。ここに山を作れ、あそこを掘れ、水を持ってこい。

パパたちがノッているときはいいんですよ。だがね、良い時は長くは続かない。

<ボス>たちの気まぐれな指示に、次第にパパたちの心が死んでいく。
さっきまで富士山つくるっていってたのに、完成する前に心変わりして唐突に山を崩し始める。「じゃあここにお城つくるってことね。パパ、塔を作って」とか言いだす。
富士山の横にお城の塔だって?それじゃあ高速道路沿いのラブホテルみたいじゃないか!と毒づきながらパパたちの心は次第に週明けの会議のことなんかを考え出す。

塔できたよ、と<ボス>を振り返ると、<ボス>はとっくの昔に遠くの水飲み場に行ってしまい、水なんか飲んでいる。
プランードゥーチェックーアクションではなく、プランーデストロイーコンフュージョンーアウェイの、悪魔のPDCAサイクル

 

そんな砂場の<ボス>たちの気まぐれな指示に疲れ、パパ達は罪悪感を感じながらついスマホに手が伸びる。FBでぼやいたり、ネットニュースみたり。

とたんに<ボス>に見つかって「パパ、スマホいじってないでパパもちゃんと作ってよ!」と怒られる。なんだこの苦行は…。

 

普段はスーツでバリバリと部下に指示を出しているパパたちは、日曜の公園で久し振りに理不尽な仕事に耐えるハメになる。パパたちが指示する我が子から学ぶのは、完成図が見えない作業はつらい、自分のしている作業の意味がわからないとつらい、言葉での指示が不明確だとつらいなどなど。

うつろな目をしてパパは考える。「砂場で人生を学ぶ、か。たしか昔そんな名前の本があったな…」

ロバート・フルガム『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』(河出書房新書)が日本で出版されたのは1990年のこと。

カウボーイや画家、牧師など様々な職業を経験したフルガムには毎年春に、自分の生活信条<クレド>を書きだす習慣があった。自分はどう生きるべきか、どのように行動し、他人とどう接すればいいか、を言葉にして意識するのだ。

つきつめていくと、フルガムの信条<クレド>はとてもシンプルなものだった。

<何でもみんなで分け合うこと。

ずるをしないこと。

人をぶたないこと。

使ったものはかならずもとのところに戻すこと。(略)>(上掲書 p.17)

などなど。

要するに、フルガムは、人生の知恵をすべて幼稚園で学んでいたことになる。
<人生の知恵は大学院という山のてっぺんにあるのではなく、日曜学校の砂場に埋まっていたのである。>(p.17)

 

日曜の公園のパパたちは、<ボス>の気まぐれな指示に想う。

・プロジェクトを始めるときは、ゴールと完成予想を明確に提示すること

・どのような意図をもってプロジェクトにとりくむか、メンバーできちんとシェアすること

・作業工程が変わるのはかまわないが、その都度シンプルに理由を伝えること

・適度な休息をはさむこと

・メンバーの自発性に任せるのは限界があること。メンバーは必ずしもそのプロジェクトに積極的とは限らない

仕事に必要な知恵もまた、すべて公園の砂場で学べるのだ。

 

数時間後、またもや<ボス>が唐突に言う。

「もう帰るー」。

やれやれ、やっと解放される、と。パパたちは安堵する。

残されたのはもともと富士山だったはずの、ナゾの城とトンネルと泥水。

「腰、痛っ」。しゃがみっぱなしだったパパたちは腰を伸ばしてシャベルやバケツを回収する。

 

『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』の中にはほかにも大事な<クレド>が書いてあったような…パパは想う。

ああそうだ、<おもてに出るときは車に気をつけ、手をつないで、はなればなれにならないようにすること。>(p.18)だ。
そうだな、それはとても大事なことだ。

パパはそう考えて、小さな<ボス>の手を握りしめて、家路に着く。
手をつないで、はなればなれにならないようにすること。

遠くで、役所のスピーカーから『夕焼けこやけ』が流れる。

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