M-1審査員はどこを見ているのか。

しつこくM-1の話。
今回優勝したトレンディエンジェルは、言ってみればハゲネタ一本でやってきたのだが、圧倒的に巧かった。そこから、M-1審査員の目のつけどころ、「面白さ」の構成要素が見えてくる。

端的に言えば、

面白さ=巧さ+ネタ・感性

である。 
当たり前だが、ただ漠然と見ている分には前者の「巧さ」とそれを支える莫大な練習量というのは気付きにくい。やってる人にしかわからない巧さというものがあるのだ。

例えばキングオブコント2015でバンビーノが披露したネタ、整体を受けた人が押された場所によってうめき声が違うというネタなどは、想像を絶する練習量がなければ実現できない芸だ。コンマ一秒ずれただけでも笑いは減ってしまうはずで、タイミング・間だけとっても常人にはできないものである。審査員のコント赤信号渡辺が「ぼくには出来ない」と評したのは、バンビーノの壮絶な練習量が透けて見えたからである。
巧さの話芸の究極は落語で、みなが内容から落ちまで熟知しているネタできちんと笑いを取れるというのは巧さの証である。

面白さ=巧さ+ネタ、の後者は目につきやすい構成要素だ。
放送作家高田文夫は昔、景山民夫にこうボヤいたという。
「いいよなドラマは。困ったら登場人物を殺しちゃえばみんな泣いてくれるんだから。こっちは毎回新しい笑いを考えなきゃならない」。
「新しい泣き」はないが「新しい笑い」はあるように、「笑い」は常に斬新さを求められる。
突拍子もない斬新さだけでも面白さは成立する可能性があるが、しかしそうした笑いは飽きられる。
テレビに出ても、「また同じネタやってる」と見切られてしまう。
しかし巧さを持った芸人の場合には、「ネタは同じなんだけど、なぜかまた見たくなるんだよね」となる。

巧さとネタの関係は、クラシックの超絶技巧とジャズのアドリブとの関係に似ているかも知れない。
ジャズのアドリブで聴衆をノらせるフレーズを生むためにも猛烈な勉強量と練習を要するが、感性が不可欠だ。ジャズのアドリブやヒップホップのフリースタイル的な笑いの極北が、かつて深夜に展開されたダウンタウンのフリートークであろう。

M-1審査員たちは、そうしたクラシック演奏家的な巧さとフリースタイル的な感性を共に評価している。
例えば松本人志は、フットボールアワーを見るときには余り笑わずに、精巧な美術品を鑑定するような表情で審査をしていた。巧さを見ていたからだ。
フットボールアワー後藤に「ドヤ顔すんな」と言うのも、「漫才巧いのは分かってるから」という枕言葉がついてのことだ。超絶巧いクラシック演奏家が、演奏の後にドヤ顔したら聴衆は冷めてしまう。
フットボールアワーの漫才を評価するときにあまり笑わなかった松本が、チュートリアル徳井を見るときには破顔していたのは、ネタ・感性・狂気を見たからである。自転車のベル、「チリンチリン」が盗まれたというネタを見ていたときの松本は、巧さではなく「こいつらはどこまで笑いの狂気を持っているのか」を見ていたのであろう。

古来よりあまたの論者が笑いについて論じてきた。論じれば論じるほど本質からずれていってしまうのが笑いの評論の難しいところだ。それでもなおぼくが今朝ここで論じたのにはもちろん理由がある。
日常会話でこれをやると確実にウザがられるのだ。

 

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