doの仕事、beの仕事(再掲)

世の中の仕事には二種類ある。
beの仕事とdoの仕事である。
なにかをする、というのがdoの仕事だが、beの仕事というのは何もせずにただそこにいるだけで誰かの役に立つというものだ。
重い病気に一人苦しんでいるときやなにもかもうまくいかずに落ち込んでいるときに傍らに誰かがいてくれる、ただそれだけで人は少し楽になる。
かたわらにいる人がたとえ何もしなくても、そこにただ存在するだけで誰かの救いになるということは確かにあって、それこそがまさにbeの仕事なのだ。

死生学の研究者アルフォンス・デーケンは旧西ドイツの病院でボランティアをしていた若いころ、旧東独から来た身寄りのない末期がん患者の最期に立ち会うように頼まれた。
この世を去りゆく者に対し何を話し、なにをしてあげればよいのかわからぬままデーケンはただただそばにたたずみ、モーツアルトの「レクイエム」をかけながらともに祈るだけであったという(アルフォンス・デーケン『よく生き よく笑い よき死と出会う』新潮社2003年 P.95-98)。
デーケンがその場にいなかったら、末期がん患者は孤独のままこの世を旅立つことになったと思うと、そのとき確かにデーケンはbeの仕事をしたのだ。

仕事にbeとdoがあるように、他人からの評価にもbeに対するものとdoに対するものがある。
「○○大学の学生」、「株式会社△△の社員」、「□□という職業」、「◎◎の出身/在住」などというbeの要素に対して、世の中は高く評価したり低く評価したりすることがある。
そうした評価ばかり気にしていると、名刺の肩書きを増やすことに血道を上げたり、ピカピカの履歴書を作ることにばかり力をそそぐようなことになる。
誰だってほめられればうれしいが、そこの部分でこじらせてしまうと「☆☆な俺を世間は評価してくれない」とすねたりする人生になるわけだ。

その昔、「位なきを患(うれ)えず 立つ所以を患(うれ)ふ。 己を知るものなきを患(うれ)へず 知らるべきを為すを求む」と孔子/Confuciusは言った(『論語』里仁編)。
「人々は肩書きや地位のないことを思いわずらうけれど、君子は自分に地位にふさわしいだけの人徳や業績がないことを憂う。みんなが自分のことを知っていてくれないと嘆く人は多いけれど、君子はみんなに知ってもらえるだけのことを自分が為していないことを嘆く」という意味だ(参考:宇野哲人論語新釈』講談社学術文庫 1980年 P.103)。
ちなみに英語だと「Do not be concerned when without official position, be concerned with where a stand is established. Do not be concerned when not appreciated, seek what can be appreciated.」というようだ(http://www.1-em.net/sampo/rongo_lingual/index_04.htm)。

そもそもなぜ英訳したのかはともかく、どんな肩書きどんなbeかではなく、何をしているかどんなdoかで評価されたいものである。
そのためにはきちんとしたdoを着実に行っていかなければならない。
beに安住せずdoを繰り出していくやり方はとても楽しく刺激的であるが、なんだかちょっと、
泳ぎ続けていないと死んじゃう変な魚になった気分でもある。

(2014年4月18日facebookに書いたものを再掲)