奥羽でわしも考えた。

山形では立石寺を訪れてみた。
松尾芭蕉が「閑(しずか)さや 岩にしみいる 蝉の声」と詠んだ地で、ふもとから山頂まで1015段の石段が続いている。
なんでも石段を登りきると煩悩が消えていくるという。
煩悩の数は108だから、一段あたり約0.106の煩悩が消えることになる。

しかしながら気になるのは「煩悩が消える」とはどういうことかということだ。
修行の末煩悩から解放された宗教者はみな、まるで肩から重荷を降ろしたように身も心も軽い。
してみると煩悩とは、重いものらしい。

しかしある一定の重さを持つものが「消える」となると、e=mc2で、相当の量のエネルギーが生じることになる。
そうかなるほど、煩悩をエネルギーに変換してみな長い石段を登りきるのだな、とぼくは納得した。

そうこうして100段ほど登った。残り900段余り。
結構疲れるな、と思ったところではたと気がついた。
疲れるだって?おかしいじゃないか。
煩悩をエネルギーに変えて階段を登るのであれば疲れないはずだ。
煩悩の質量がどれくらいかは知らないが、わずかな質量であれ消滅するならば相当のエネルギーが生まれるはずで、体力を使う必要なんかはないはずだ。
生み出されるエネルギーに比べれば石段を登る運動エネルギーなんて微々たるもの。
エネルギーには余剰があるはずで、石段を登ることで疲れるはずがない。むしろ石段を登るごとに元気にならなければ理屈があわない。
従って、石段を登ると煩悩が消えるというのは正しくない。


正しくは、石段を登ると煩悩が身から剥がれるという感じなのであろう。
そういうことかと考えながら石段を登る。
200段ほど登ってまわりを見回すと、石段を登っている人はこころなしか清々しい顔をしている気がした。

1015段あるうちの200段登ったところということは、煩悩2割減といったところか。
ぼくは納得してまた石段をまた登りはじめた。

待てよ。
身から剥がれ落ちた煩悩はどこへ行くのだろうか。
消えないとすると煩悩は石段のところに残されてしまうことになる。
そう思って石段に目を凝らすと、今まで登った人たちが置いていった煩悩がうっすらと見える気もする。
ということは、山の下のほうほど煩悩濃度は濃いことになる。
山のふもとには煩悩が濃い濃度で漂っているだろうから、ふもとの書店で『ビッグ・トゥモロー』とか『レオン』とかの雑誌を売ったらバカ売れするのではないだろうか。

そう考えながら200段ほど登る。残り600段ほど。
しかし山というのは登ったら降りるのが道理だ。
登るときに石段に置いていった煩悩は、降りるときにまた身についてしまうのではないか。
すなわちプラマイゼロ。
そう考えると、立石寺が開かれてから1100年以上経つ今でも地上に煩悩があふれている理由が分かるというものだ。
みんな煩悩を持って帰ってしまうのである。

なるほどなるほど。
納得しながらまた石段を100段ほど登る。
石段を登って煩悩から解放され、石段を下りてまた煩悩にとらわれるわけか。
世の中そんなに甘くないよなあ。
などと考えながらまた100段ほど歩を進める。残り400段。

待てよ。
石段に置き残された煩悩を、みなが下りてくる前に回収することが出来たらどうだろうか。
みなが石段に置いていった煩悩を、大きな掃除機みたいなものですべて吸い取ってしまえば、山から下りてくるときも煩悩が再び身に付くことはなくなる。
言ってみれば「煩悩クリーナー」みたいなものを発明すればよいのだ。

回収した煩悩はどうするか。
処理してしまってもよいが、ここはリサイクルするのがよろしかろう。
集めてカンヅメにして保管しておき、必要なときに開けるのだ。

煩悩が必要なときとは何か。
煩悩というのは言い換えれば欲望だ。
欲望は暴走すれば自分もまわりも傷つけるが、うまく使えば経済を回すことができる。
あれが欲しいとかあれ食べたいとか、そうした欲望があってはじめて消費は生まれる。
欲望は、社会のエンジンなのだ。

日本経済が低調になって久しい。
構造的な問題として横たわるのが需給ギャップであり、若者の○○離れだ。
若者の○○離れ(○○には車、お酒、恋愛、買い物、テレビなどありとあらゆる文字が入る)の原因は使えるお金が少ないことに主因がある。
限られたお金で生きていくための防衛本能として煩悩を捨て去らざるをえなくなっているのが現在の若者である。
ミクロの問題、個の生存戦略としては合理的なことも、それがあわさっていくとうまくいかなくなる。「合成の誤謬」である。
消費しない消費者と、投票しない有権者は、現代社会のアイロニーなのだ。

考えながら石段を登る。あと300段ほどだ。
需給ギャップの問題も大きい。
ざっくりいえば、社会の生産能力(供給)が消費能力(需要)を上回ってしまった状態で、一説には需要と供給のギャップは数十兆円とも言われる。

景気低迷の原因が構造的な問題だとわかっていないと、対策としてトンチンカンなことばかり語られてしまう。
「日本の得意なモノづくりにさらに力を入れる」とか「日本独自のおもてなしサービスを開発する」とかがそれで、供給能力が需要をはるかに上回っているからモノが売れないのに、さらに供給能力を伸ばしてどうする。
刺激すべきは供給・生産サイドではなく、需要・消費サイドなのだ。

そこで活躍するのが我が「煩悩のカンヅメ」だ。
消費が低迷した地域に煩悩のカンヅメを輸出し、開けてもらう。
地域には物欲・食欲・購買欲といった煩悩があふれ出し、一気に消費が刺激される。
需給ギャップの解消である。

煩悩クリーナーで回収される煩悩のなかには、出世欲・名誉欲・金銭欲といった煩悩もあるであろうから、そうした煩悩だけ精製して、やる気のない部下を持った上司に売りつけるのもいいな。
やる気のない部下に煩悩を吸わせて24時間働く企業戦士にしてしまう。
「煩悩」という名前だと売れないから、ギリシャ語あたりで「労働を愛する」というようなフレーズを探してきて商品名にしよう。

集めた煩悩から性欲を精製して少子化対策に用いるというアイディアも一瞬浮んだが、暴走しそうだからこれは封印。
そもそも少子化は経済問題だしなあ。

純度の高い煩悩を「金の煩悩」、セカンドクラスを「銀の煩悩」と名付けて売るのもいいぞ。
煩悩のカンヅメはバカ売れ間違いなしだから、応募券1枚で「銀の煩悩」、5枚集めないと「金の煩悩」が買えないことにしよう。

我ながらすごいことを考え付いた、「煩悩クリーナー」と「煩悩のカンヅメ」で巨万の富も手に入るし、経済対策でノーベル経済学賞だってもらえるかもしれない。
富も名誉もおれのものだ、いいぞいいぞ。
そんなふうに胸を高鳴らせたのは、石段を登り切ったのとほとんど同時の出来事だった。