Egotismについて

Egotism(エゴティズム)という言葉がある。
Egoism(エゴイズム)とはちょっと違って、Tが入る。
Egotismとは文章や会話の中に「I」とか「me」とかの一人称単数をたくさん用いることで、「おれがおれが」「私が私が」という語り口のことだ。
日本でも「おれがおれが」と自分のことばかり話す人が敬遠されがちなように、ヨーロッパでも昔からegotismは避けるべきものとして扱われてきた。
<十八世紀の上流階級処世の教訓書として代表的な、チェスタフィールド伯爵が息子に与えた『書簡集』の中にも、「あなたの会話からエゴティズムを追放せよ」と書いてある。つまり、会話の中に一人称単数のI(アイ)を使うな、ということである。>(渡部昇一『続・知的生活の方法』講談社現代親書 昭和54年 p.120)
エゴティズムはうぬぼれとか自分をよくみせようとかいう見栄っぱりの表現と考えられていたのである。
ヨーロッパの宮廷では、自分語りばかりする者には容赦なく「自分語りUZEEE」「そんなもんチラシの裏にでも書いとけや」という罵声が浴びせられていたという(『殲滅!獲業恥頭無!!宮廷"鬼”族の仮面”武闘”会裏歴史』民明書房刊)。

ヨーロッパでエゴティズム、自分語りが虚栄心の表れととらえられていた/いるということを知ると、いろいろなことが見えてくる。
自分のことを語らないで会話や対話を成立させるにはどうするか。
やってみるとわかるが、「わたしが」「ぼくが」「おれが」という要素を取り除いて会話を成立させようとするとなかなかうまくいかない。
自分のことをまったく語らないと会話が弾まないのだ。
意識して自分のことを話さないようにすると、下手をすれば会話相手から情報を引き出すばかりになってしまう。
警察の尋問でもあるまいし、自分のことを話さずに質問ばかりしてくる相手と楽しい会話ができるはずもない。
やはりある程度は自分の話をしてこそ、相手も胸襟を開いてくれるというものである。

エゴティズムを忌避しつつ会話文化、対話文化を花開かすにはどうするか。
一つは自分とも相手とも関係のないことを話題にする。
ある程度の社会的地位にある欧米人は、芸術やアート、文学や歴史の知識がある(ことになっている)が、あれはなにも皆が皆生まれついての教養人というわけではない。
自分のことを語りすぎず、相手のことも傷つけず、何気ない会話で利害関係を損ねることのないようにしつつ会話を弾ませるためには、芸術や文学、歴史の話というのは大変都合がよいのである。
しかも芸術や文学、演劇や歴史の話というのは微に入り細にいればいるほど話のネタがつきることがない。
エゴティズムを出し過ぎず、会話相手を詮索しすぎず、不用意な発言で利害関係を損ねることなく処世していくための方法として、ある程度の社会的地位にいる欧米人は芸術や文学などの知識を身につけて使うのだという(福田和也『悪の対話術』講談社現代新書)。
教養は、サバイバルツールでもあるのだ。

エゴティズムが避けるべきものとして扱われていた/いることがわかると、小説作法の日欧の差も理解できる気がする。
日本では私小説と呼ばれる、作家自らの内面を吐露するような小説が昔から盛んである。
作家そのものの苦悩や葛藤を込めた作品ほど、「ほんものの」小説と評される風潮があるように思う。
このように日本では小説というのは作家の生い立ちや経験を反映したものととらえられているが、欧米ではむしろ壮大なフィクションが好まれるように思われる。
伏線を張り巡らせ、構成に矛盾のない、堅牢な建築物のような物語を編み出すような作家が大作家とされる。
作者と作品は全く別物で、作家がどんな人物かとは無関係に物語を読んで欲しいと思うからこそサリンジャーも世間から身を隠してひっそりと暮らしたのだろうし、ジョン・アーヴィングも小説の登場人物にそんなことを言わせていた。
たぶんそこらへんの美意識も、エゴティズムを忌避する文化風土と関係するのだろう。
             
なにもヨーロッパにかぶれるつもりもないが、確かに「俺が俺が」という語り口、egotismからは距離を置きたい。
そのためには、教養と物語をつくる能力が重要だと考え、先日からさっそく実践してみた。

周囲から「ウンチク大魔王」「ほら吹き男爵」と呼ばれるようになるまで、それほど時間はかからなかったことを付記しておく。

 

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