<死に止め>~新聞記者から聞いた話(再掲)

ベテランの新聞記者が言った。
「不謹慎なんだけれども、<死に止め>、という言葉が我々の業界にはあるんです。
聞いたことありますか?
これは、おじいちゃんが亡くなったからこれを機に新聞とるのをやめる、ということなんですね。
アメリカでも紙の新聞はどんどん減っていっている。
ニューヨークタイムズでさえ、<ニューヨークタイムズは残るが、紙のニューヨークタイムズはなくなるかもしれない>と言っている。
日本の場合には、紙の新聞はアメリカより10年から15年は長く生きていけるかもしれません。
アメリカではラジオ、テレビ、新聞といった複数の媒体を一緒に経営することは禁じられているけれど、日本の場合には総合メディア企業としてコングロマリット化しているのでなんとかしばらくはいけるかもしれない。
ただ、収入構造がどうなっていくか。
収入が減れば記者の数が減るし、取材費は削られていく。
記者の数が減れば、取材力は減ってしまう。
新聞やメディアへの不信感もある」。

ベテラン記者は続ける。
「ただ、どういう形かはわからないけれど、メディアを通じて世界を理解したいということは続いていくんじゃないかと僕は思います。
なにか出来事があって、それはこれからはじまる新たな事態のきっかけではないか、こういう事態のはじまりではないか、と自分なりの知恵をしぼってニュースとして提示していく。
この出来事に注目したらどうでしょうか、これは重大なことなのではないでしょうか、ということを自分たちなりに分析して新聞やラジオ、テレビはニュースをこれからも報道していくことになるでしょう」。

カミュの小説『ペスト』の冒頭、主人公のベルナール・リウーは出かける途中で一匹のネズミの死骸を見つける。
1940年代のアルジェリアの街のこと、リウーは気にも留めずにそのまま通りへ出ていこうとするのだが、ふと立ち止まって引き返す。
なにやら違和感があったのだ。
リウーは、<その鼠がふだんいそうもない場所にいたという考えがふと浮び、引っ返して門番に注意した。>(カミュ『ペスト』昭和44年 新潮文庫 p.11)
翌日、ネズミの死骸は3匹になり、やがて街のあちこちでネズミの死骸を見かけるようになり、そしてついにはペストが人間に襲いかかる―。

おそらく新聞報道とは、そうした一見ささいな出来事、ふつうなら見落としてしまうような出来事の裏に潜む意味を見つけ出し、大きな文脈の中に位置づけながら提示することで、読者に世界の読み方みたいなものを教えてくれるものなのだろう。
ネットのニュースはスピードは早いが、大きな文脈の中で出来事を解釈するというノウハウは今のところ持っていないように思える。
もちろん、こんな意見もある。
誰かにいちいちニュースの意味合いを教えてもらわなくても、今はネットでいくらでも情報が得られるし、その情報の解釈は一人ひとりが自分自身でやる時代だよ、と。
しかしながら無限にあるネット上の(というよりは世の中の)情報を取捨選択し、独力でニュース一つひとつの意味合いを考えて吟味するには、生活者の時間というものはあまりに限られているのではないだろうか。
誰かにニュースの裏側に潜む意味や、世界全体を理解する術を教えて欲しいという需要は確実に存在するのだ。
だからこそ池上彰があれだけ引っ張りだこなわけである。

というわけで、情報収集はネットだけでOKという意見には多少疑問を感じてしまう。
毎朝配達されてくる刷りたての新聞のインクのにおいにわくわくした子供のころのノスタルジーにとらわれすぎなのかもしれないが、ぼくとしては新聞の復権を心より望む。
思い付きで『ネズミの死骸』(もちろん比喩だ)をあちこちにアップして面白がるインターネットだけなく、一匹の『ネズミの死骸』がもしかしたらこれからやってくる災厄の端緒なのではないかと警鐘を鳴らす新聞的なものはやはり必要なのではないだろうか。

もちろん、実際には『ネズミの死骸』も無いのにあったようなことを書いて、世の中をおおいに惑わせるような新聞では困るわけではあるのだが。
(FB2014年9月15日を再掲)

 

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