楽観主義と悲観主義 part2

友人Aは言った。

「楽観と悲観は、相反するものではないかもしれないね」と。

玖保キリコのマンガに出てくる白熊の「オプチ」と黒熊の「ペシミ」のように、楽観と悲観はいつも二人三脚でやってくる。

悲観主義の黒熊「ペシミ」が「もうダメだ」と言えば、楽観主義のシロクマ「オプチ」が「だいじょうぶさ」となぐさめる。

楽観主義者がそばで守ってくれるからこそ悲観主義者は悲観に酔いしれることができるし、悲観主義者がいるからこそ楽観主義者はより強くその楽観主義を表に押し出すことになる。

悲観と楽観が背中あわせのものであるにせよ、じゃあどちらの立場を取るのかと問われたらぼくは楽観主義を取ることにしよう。


古代ローマ人は言う。「Dum spiro spero.息しているなら希望を持とう」。
アラブ人は言う。「死んでいないやつには、まだチャンスがある」。

二太の姉、かのこは言う。「泣いたら世間がやさしゅうしてくれるかあっ。泣いたらハラがふくれるかあ。泣いてるヒマがあったら、笑ええっ!!」。

泣くのが嫌だから笑っている楽観主義者というのもいるのだ。

楽観主義者とは誰か。

戦いに敗れすべてが灰に帰しても、それでもなお「なんとかなるさ」と立ち上がった者だ。

楽観主義者とは誰か。

災害ですべてが瓦礫となっても、それでもなお「なんとかしよう」と自ら重機を動かし瓦礫を片づけ始める者のことだ。

楽観主義者とは誰か。

預言者と間違えられてゴルゴダの丘に張り付けになっても、それでもなお「Alway Look on the Bright Side of Life.いつでも人生の明るい面だけ見よう」と口笛を吹ける者のことである。

まわりの人は言うだろう。「こんなにひどい状況なのに笑っているなんて、彼はなんて楽観的なんだろう。どうせダメだよ」と。

楽観主義者は知っている。
泣いても何も解決しないことを。
楽観主義者は知っている。
絶望したままの自分を生かしておいてくれるほど世界は優しくないということを。
楽観主義者は知っている。
苦しい時こそ無理して笑い、自らの足で一歩踏み出してこそ、はるかに遠い未来に一歩だけ近づくことができるのだということを。

未来は誰のものか。
何もしない完璧主義者、冷笑と批判をたくみにあやつる悲観主義者のものではない。
未来は誰のものか。
自ら立ち上がり、苦境と逆境の中、へたくそなジョークを飛ばして二ヤッと笑い、カラ元気と虚勢に裏打ちされたやけっぱちの精神で、「なんとかなるさ」と強がりつつ自ら動く楽観主義者のものだ。

楽観主義者たちよ立ち上がれ。
今こそともに宣言しよう、声高く。
「まあでも、なんとかなるんじゃない?」と。

なんてね。