楽観主義と悲観主義ー第3章ー

「ものすごく悲観的なことを言うくせに、自分自身の未来については超楽観的な人っているよね。あれはなんでだろう」
友人Aが指摘した。
悲観主義と楽観主義について論じたときである。
悲観主義と楽観主義について2回ほど論じて、読んでくれる人も飽きたんじゃないかと思うけれど(←悲観主義)、誰か一人でも楽しんでくれればいいんじゃないかな(←楽観主義)。

悲観主義と楽観主義、漢字で書くと重い感じがしてきたのでペシミズムとオプティミズムとする。
ぼくは、ペシミスティックな物言いにはどこかしら「いい気なもんだ」という感じがしてしまう。

例えば日本の未来について話しているときに、「どうせなにしたってダメだよ」と吐き捨てるような人がいる。
少子高齢化に巨額な債務赤字、内向き志向に老朽化するインフラ。
配られた牌を見れば先行き厳しいなんてことは誰だってわかる。
しかし配られた牌でどう戦っていくかが勝負で、それを論ぜずに「なにしたってダメだよ」というペシミズムに走るのは、はっきり言ってズルい。

ものごとがうまく行かなければ「ほら俺が言ったとおりだろ」と言えるし、もしうまく行けば「俺が警鐘を鳴らしたからだよ」と言える。どっちにころんでもペシミズムは得をする。

ズルさのもう一つは、ペシミズムは常に自分を状況の外に置くということだ。
冒頭の、状況に対してはぺシムズムの立場に立つが自分についてはオプティミズム、という立ち位置が象徴的だ。
論じている未来や状況の中に自分が含まれないとすればいくらペシミスティックなもの言いをしても自分は傷つかない。
しかし論じている未来や状況が、自分自身を内包するものだとすれば恐ろしくてぺシムズムには走れないはずだ。「(自分自身は別だけど)未来は暗い」と平気で言えるのがペシミズムなのだ。

オプティミストは未来や状況に常に自分を含めて考えるから、怖くて悲観的なことは言えないのだ。

こうした自分自身を外に置いたもの言いというのは、海外生活者の一部の人の「海外と比べて日本人は全然ダメ」という立ち位置に似ている。
論じている「日本人」グループの中に自分自身を含まない想定だからこそ平気で「日本人は全然ダメ」と言える。自分は例外だからだ。
そういう立ち位置は昔の南アフリカの「名誉白人」の如きもので、支配民族(マスターレース)に頭を撫でられてごろごろと喉を鳴らして喜んでいてそれでよいのか、我が国の歴史と文化に対する敬意はどこへ行った、今こそ民族の誇りを取り戻せ!!!!(←国粋主義
さてと。

悲観主義と楽観主義、ペシミズムとオプティミズムについて論じてきたが、つまるところ、お互いがお互いを尊重して仲良くやっていくことが大事だよね(←ご都合主義)。

おまけ)<「おまえは、チェコから帰ってきたとき、チェコの患者が≪ドクター、イズムのつくものはみなよくありませんな。アルコーリズム、モルフィニズム、クリスチャニズム、マルキシズム≫といってウインクしたといっただろう。おそらく冗談でいったに違いない。そしておまえは、今後はキリスト教マルクス主義をキリスト中毒、マルクス中毒と訳そうといった。覚えているかい」>(なだいなだ『神、この人間的なものー宗教をめぐる精神科医の対話ー』岩波新書2002年p.185)

なるほどイズムは中毒か。イズムのつくものはみなよくない、と。
 ↑バカリズム先輩のことディスってんじゃねーぞ、ビーフ上等だコラ。