家事代行から市場主義を考える(再掲)

2月5日配信のyahooニュースによれば、共働き家庭の家事について「月2万で業者に依頼しろ」という意見が登場しネット上で議論になっているという。
記事には<これを提唱したのは、作家で人気ブログ「金融日記」管理人の藤沢数希氏。藤沢氏は1月30日、ツイッターで、
「共働き夫婦の家事の分担の問題がたびたび話題になるが、そんなもん月に2万円も払えば業者が全部やってくれるのに、なんで押し付けあってるのか理解に苦しむ」
とツイートし、堀江貴文氏が「馬鹿だからでしょ」と応じた。>とある。

 

まず最初に、お金を払って家事代行してもらうことの是非を論じるつもりはまったくないことを強調しておきたい。
僕自身が興味深いと思うのは、なぜこうした議論が起こるかの前提についてである。

働く既婚女性と話すと、家事代行の話題になることがある。
「私は頼みたいんだけど、夫がいやだって言うのよね」と愚痴られたりもする。
夫側の商業的な家事代行に対する拒否感の根本はつらつら考えるに二つある。

一つ目は、自分のテリトリーに他者が入ってくることへの抵抗感。
人間は動物なので、見知らぬ人に自分の領域を侵犯されたくないというナワバリ意識が存在する。
自分の知らないときに自分のしらない他者に自分のナワバリを犯されたくないというオスとしての本能があるのだ。
これはわかりやすいし、理解もされやすいが、それだけではないのではないかとずっと考え、先日答えを見つけた。
それが二つ目の理由、「衝突」である。

「衝突」とはなにか。
道徳と市場主義の衝突だ。
この衝突は意識下で起こっている。
お金を払って家事代行を依頼することを妻が提案すると、夫側はこう言う。
「うまく言えないけど何かやだ」。
妻側が、出費がいやなのか、それならかわりに同じ額を払って親戚に家事をしてもらうのはどうか、と追い打ちをかけると
「それならいいけど…」と夫は言うだろう。
「どうして?それなら一緒じゃない。意味わかんない」と妻が応じ、険悪な空気が流れる。
こうした小規模な小競り合いは日本全国の共働き家庭で一日あたり数千件起こっているという(当社調べ)。

しつこく言うが、ビジネス家事代行の是非について言及するつもりはまったくない。
「衝突」について述べる。
マイケル・サンデルは著書『それをお金で買いますか 市場主義の限界』(早川書房)で、なんでもかんでもお金で買えるという市場主義は、二つの道徳的問題を起こすと述べる。
公正性と腐敗である。
公正性について、サンデルの挙げた例の一つに、病院の診察待ちの予約券売買がある。
北京ではよい医者の予約券のダフ屋がいて、受診したい人の予約券を高値で取引している(p.42-43)。
市場主義が万能ならば、予約券が高値で取引されようが問題ないはずだが、我々の多くはこれに違和感を感じるだろう。

もっと奥深いのは、市場主義が本来適応されない分野に入りこむと腐敗を起こすという指摘である。
サンデルは言う。
<(略)市場による評価や取引はある種の物や行為を堕落させる効果を持つということだ。この異論によれば、ある種の道徳的・市民的善は、売買されると傷ついたり腐敗したりするという。腐敗の観点からの議論は、公正な取引条件が成立したからといって論駁されるわけではない。それは、平等な条件下であれ不平等な条件下であれ通用するのだ。
 売春をめぐる古くからの論争が、この違いを明らかにしてくれる。一部の人々は、本当に自発的な売春はめったにないという理由でそれに反対する。セックスのために体を売る人は、貧困、麻薬中毒、暴力による脅しなどによってそれを強制されているのが普通だというのだ。これは公正の観点からの異論の一種である。しかし、強制されていようといまいと、売春は女性への侮辱だという理由でそれに反対する人もいる。この議論によれば、売春はセックスに対する間違った態度を反映し、助長する一種の腐敗である。>(p.163-164)
引用箇所として最適かどうか不安なので、サンデルの別の例を出す。
<二〇〇一年、男児の出産を控えた夫婦が、息子の名前をeBayとYahoo!のオークションに出品した。二人が期待していたのは、どこかの企業が息子の命名権を買い、その見返りとして愛情豊かな両親に、成長する家族にふさわしい快適な家や施設の資金を提供してくれることだった。だが結局、五〇万ドルという希望価格に応じる企業はなかったため、夫婦はあきらめて、子どもに普通の名前をつけた(ゼインと命名した)。>(p.270)
サンデルは、子どもに企業の名前(ウォルマート・ウィルソン、ペプシ・ピーターソンなど)をつけるのは仮に子供が同意したとしても人格を貶める行為ではないかという。

要するに、市場主義が適応される領域とそうでない領域があるということだ。
そして後者の大部分は、われわれ良き市民が道徳や規範、善悪と呼ぶ分野である。
ビジネスとしての家事代行に抵抗感を感じる者は、家庭や家事を市場主義に入ってきてほしくない分野と(無意識のうちに)感じている。
ある種の聖域・なにかしらの神聖な行為として家事をとらえているため、そこに市場主義が入ってくることを嫌うのだ。
逆に、ビジネスとしての家事代行に抵抗感が少ない者にとって、家事は手間隙かかるわりには誰がやっても変わらない代替可能な日常業務なのであろう。
日常業務に神聖性を意識し続けるのは困難だ。

道徳と市場主義の衝突については、墓参りの代行や外食好きやコンビニ弁当好きへの非難、手作り礼賛などにもみることができるであろう。
また、市場主義がどこまで適用されるべきかは時代や地域、個人によって変わってくる。
かつて正月飾りは各家庭で手作りするもので買ってくるものではなかったし、はるか昔結婚式や葬式も家庭で行うべきものだったはずだ。
一番最初に「正月飾り作るのは大変だし、買ってもおんなじ」とか「結婚式や葬式を家でやるのは大変だから、お金払って業者にお願いしましょう」と提案した者は、共同体のなかで眉をひそめられバッシングを受けたことだろう。

話をビジネス家事代行に戻す。
なぜ、同額のお金を親戚に払って家事をお願いする行為には夫は抵抗感が少ないのか。
それを考えるにはLohn(ローン)とHonorar(ホノラール)、Wage(ウェイジ)とGarantee(ギャランティー)、レイバーとワーク、賃金と謝礼について述べなければならないが気力も尽きた。
この部分、ネタ元は佐藤優『人たらしの流儀』(PHP出版 2011年)のp.103-115なのでご参照いただきたい。

最後に、家事代行を利用することの是非を論じたいわけではないことを強調したい。
なぜこんなにもしつこく家事代行の是非を論じたいわけではないことを強調するかというと、
さっきから妻がこっちをじっと見ているからなのだが。
(FB2015年2月6日を再掲)