「地域包括ケアシステム」を考える(R)

「地域包括ケアシステム」という言葉を聞くたびに、ぼくは喉に魚の小骨が二、三本刺さったような気持ちになる。
考えをまとめるために、つらつらと書いてみたい。

「地域包括ケアシステム」は、団塊の世代が75歳になる2025年を前に、自分たちの住む地域で人生をまっとうできるように医療や介護などのシステムを自助・互助・共助・公助の視点を持って作りましょうというものだ。

 

さて、第一の小骨はこの手のなんとかシステム論を聞いたときにいつも思う「ほんとにそんなにうまくいくんかいな」という感情だ。
社会も会社も仕組みを動かしているのは「人」だ。
そこで働く「人」を無視していくら「システム」だけ作ったってうまく回ることはない。
「システム」ばかり論じてそこにいる「人」を論じなければやっぱり全ては机上の空論、役所の作文である。
フェアに言えば「システム」と「人」は車の両輪で、「人」なき「システム」は非現実的な一方、「システム」なき「人」の集まりは非効率的だ。
横滑りするが「人」づくりは性善説孔子的であり、「システム」づくりは性悪説荀子的である(この部分、フランシス・フクヤマ『政治の起源』の影響を受けている)。
平たく言えば、「システム作ったってそこで働く人がいなかったら回んないよなあ」というのが第一の小骨。

第二の小骨はベッドタウンどーすんの問題。
医療の地域差で注目されるのは都市部と地方だけど、第三の地域=ベッドタウンの問題はもっと注目されるべきだ。
高度経済成長にともない地方から出てきた若い勤労世帯は、都心から電車で一〜二時間かかるベッドタウンに一斉に居を構えた。
都心の住宅は高価だったし、数も限られていた。
痛勤とさえ言われる満員電車はしんどかったが、小さいながらも一軒家、子供たちは郊外で伸び伸び育ち、若い世帯と若いベッドタウンにはなんの問題もないように見えた。
が。

そこにやってきたのが都心回帰である。
湾岸を埋め立て、建築技術の進歩と容積率の緩和によってもたらされたタワーマンションにベッドタウン育ちの若者を呼び寄せ、都心は再び若い労働力と消費パワーを獲得してエネルギーを増した。
そして都心をドーナツ状に囲むベッドタウンに取り残されたのが元・働き盛り世代である。

千葉県・神奈川県・埼玉県では住民あたりの医療リソースが少なく、これを三県問題という。
今までは働き盛りで病気知らずの若い地域だったので、相対的に医療リソースの必要性が低く整備にあまり熱心でなかったのだ。
だが上述の都心回帰と少子化で一気に問題が表面化しつつある。
高齢化が進むベッドタウンでは税収が伸び悩む。
医療リソースは少ない。
単純化していえば都市部では人も多いが税収はあり、(お金を出せば)医療リソースは手に入りやすい。
地方部では人口減少と高齢化が相殺されすでに定常状態に入りつつある。
地方部ではないものはない、今ある医療リソースでやるしかないというふうに問題も見えやすいし、医療介護のプレーヤーも互いに顔が見えていて「俺たちがやらなきゃしょうがない」というマインドも作りやすい。

ベッドタウンの難しさは住民も医療リソース側も流動的なため問題が意識化されにくいところにある。
ちょっと頑張れば都心の病院に通えるし、地方部よりも医療過疎をふだんは意識しないで済む分、「自分たちの地域でなんとかしよう」という意識を持ちにくいのだ。
意地悪くいうと、都心のごく限られたリッチな層がこれから甘受する医療介護サービスを目と鼻の先で見てしまうぶん、自治体税収と医療リソースの限界からくる自分の地域の医療介護サービスの制限に納得できず、不満と不信が蓄積していくのがベッドタウンの医療介護問題となるだろう。

「地域包括ケアシステム」と聞くと感じる第三の小骨は結構大きめなのだが、そろそろ電車が駅に着く。
とりあえず第三の小骨は喉に刺さったまま、今からお仕事に行ってきます。

それじゃまた。

(FB2015年4月7日を再掲)

 

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