「地域包括ケアシステム」を考える2(R)

「地域包括ケアシステム」と聞くたびに感じる喉に刺さったままの魚の小骨のような感じについてもう少し書く。
第二の小骨、「ベッドタウンどーすんの」問題について、ぼく自身がベッドタウンで育った人間「郊外の子」、言ってみれば「俺は郊外生まれベッドタウン育ちダルそな奴らはだいたい友だち」なのでもうちょい書きたいけれどそれは改めて。

さて第三の小骨は「結局地域に丸投げかよ」問題である。

 

社会で何かをするにはヒトとモノとカネが要る。
医療活動においてカネは健康保険料と税金と自己負担から成り立つ。
このうち自己負担については今のところそこそこで抑えられていて、本当の本当に医療が必要な場合にはまあなんとかなる程度、「カネの切れ目が命の切れ目」になるほど高額ではない。
世界にはカネの切れ目が命の切れ目になるくらい医療が高額な国や時代のほうがたぶんはるかに多いことを考えると、これは素直に大した偉業だと思う。
これも一重に健康保険制度と税金投入のおかげ(もちろんお金の出所は国民の財布だ)で、このためにおカネの面では全国どこにいても医療の平等性はそこそこ保たれている。
小児医療費の自治体負担の差や介護度認定基準の微妙な線引きの話はあるけれど、中国の都市戸籍農村戸籍の格差から比べればまあかなり平等と言っていいんじゃないだろうか。

問題はヒトとモノである。
堅苦しく言えば、カネは医療費保障制度、ヒトとモノは医療提供体制。
<(略)医療提供体制と医療費保障制度は、車の両輪のような関係にあり、双方がそろわなければうまく機能しない。
まず、医療提供体制が整備されていなければ、どんなに優れた医療費保障制度があっても、医療サービスを利用することができない。したがって、医療提供体制の整備はすべての基礎になる。>(印南一路ほか『生命と自由を守る医療政策』2011年 東洋経済新報社 p.11)

歴史的に、日本の医療提供体制は民間中心でやってきた。
個々の地域を支えてきたのは志高い民間中心の医療リソースであったわけだが、民間には財政的な制限もあり、金銭的に大きな赤字が続くような事業や地域に手を出しにくい。
このため民間だけでは医療提供体制に地域や事業のムラが出来てしまう。
そこを補完するのが国や公の役割なのだが、国や公の医療提供体制はどうなっているだろうか。

全国にあった154の国立病院は平成16年に独立行政法人化され143に統廃合された。
公的病院の非効率性や不採算性が問題となったのである。
総務省サイトによれば、<独立行政法人とは、
1)公共性の高い事務・事業から
2)国が直接実施する必要はないが
3)民間の主体に委ねると実施されないおそれのあるものを実施するもの>とあるが、同時に<業務の効率性・質の向上>などを図るともある。

民間だけでは効率の悪い地域をカバーできない。
独立行政法人も、効率の悪い地域を積極的にカバーするモチベーションに乏しそうだ。
つまり、比較的全国平等の医療費保障制度はあるものの、医療提供体制は地域差のあるままで、その地域差を埋めるベクトルの動きは存在しないのではないか。
医療提供体制がない中で医療費保障制度だけあっても、お店のないムラで地域振興券やクーポン券を配るようなものである。

「地域包括ケアシステム」の名をきくたびに感じる第三の小骨はこれだ。
現在ある医療介護提供体制を放置したまま、「これからは地域で住民の医療や介護をまかなってください」と言ってるだけなんじゃなかろうか。

義務教育というものがある。
日本に生まれた者は、どこに住んでいても一定の教育を受けることができる。
民間主体では採算がとれないような離島や山村であってもそれなりの教育を受けることが出来る。
医療や介護はどうか。
日本に生まれ育つ者が誰でもどこに住んでいてもそれなりで一定の義務教育が受けられるように、日本に暮らし老いて死んでいく者が誰でもどこに住んでいてもそれなりで一定の医療や介護を受けられるべき、というのは突飛だろうか。

公的医療かくあるべしといった理念もなく、すでにある地域差に目をつむって「地域包括ケアシステム」さえ出来れば2025年は大丈夫、みたいな話を聞けば聞くほど、喉に刺さったままの小骨は大きくなっていくのである。
痛っ。

(FB2015年4月9日を再掲)

 

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