頭が痛いーオノマトペと共感覚(R)

 

「頭がずきんこずきんこするんですよ」。
患者さんが言った。
ずきんこずきんこ。
初めて聞く表現だがなんだか雪ん子みたいでかわいらしい。

 

おそらく脈を打つような頭痛のことを示しているのだと思われるが、こうした症状を表す表現、擬態語、オノマトペというのはたくさんある。
ピリピリ、ヒリヒリ、ズキズキ、ジーンなどなど、痛みを表現する言葉というのはいくらでも出てくる。
よく知られている言葉だけではなく、ひとりひとりによってオリジナルの表現が時々聞かれることがあって趣き深い。
脚がずうずうするなんて言われたこともあるが、これは脚の内部が疼くような感じだろうし、胸がはかはかすると言われたときは動悸の訴えだろうと見当がつく。

こうした擬態語というのはコミュニケーションにおいて大変有用なものである。
ただ単に「頭が痛い」といわれるより、「頭がずきんずきんと痛い」、「頭がぴりっと痛い」、「頭がズーンと痛い」と言われるほうが何倍も情報量は多い。
考えてみれば不思議なことで、痛みやしびれといった身体の感覚というものはその人個人しか感じることができない。
ある人が「ずきんずきん」と表現する痛みが、別の人にとっても同じものなのかは本当はわからないはずである。
にもかかわらず、「ずきんずきん」という言葉が、脈を打つようなリズミカルである程度強く、短時間で繰り返しおそってくる痛みということがなぜお互いにわかるのであろうか。
痛みの表現方法を特に言語で教育されたわけでもない子供同士でも、ずきんずきんといった痛みの表現はふつうに使うのが不思議だ。

大変魅力的なのは、人間の脳みそにもともとそうした機能が備わっているというアイディアだ。
「キキ/ブーバ効果」というものがある。
まるまるしたアメーバのようなマンガの吹き出しのような図形と割れたガラスの破片のようなギザギザの図形二つを並べて誰かに見せる。
そうしておいて、この二つの図形にはそれぞれ名前があって、どちらかが「キキ」でどちらかが「ブーバ」というのだけど、どちらが「キキ」でどちらが「ブーバ」かあてて欲しいというと、ほとんどの人がまるまるした図形を「ブーバ」でギザギザしたほうを「キキ」だと選ぶのだ(V・S・ラマチャンドラン著『脳のなかの幽霊、ふたたび』 角川書店 2005年 p.110-113)。
「キキ」、「ブーバ」という耳から入る情報=聴覚情報と、図形の認識という目から入る情報=視覚情報が脳の中でまったく別に処理されるのであれば、こうした「キキ/ブーバ効果」というのは起こらないはずだ。
視覚情報と聴覚情報がある程度リンクして脳の中で処理されるからこそ、まるっこい図形を「ブーバ」という音と結び付け、ギザギザの形を「キキ」だと考える人が大半なのである。
聴覚情報と視覚情報がまったく独立して無関係に脳の中で情報処理されるとすれば、まるっこい図形を「ブーバ」だと思う人と「キキ」だと思う人はフィフティ^フィフティなはずなのだ。
ラマチャンドランはこうした脳の働きを「共感覚」(の一種)と呼び、脳の左半球の「角回」という場所がその機能を担っているとしている。

ずきんずきんとかピリピリといった痛みの表現を聞いたときに、痛みの種類が容易に想像できるのはなぜか。
「キキ/ブーバ効果」と同様のプロセスが働いているのではないか、という仮説が成り立つ。
Junko Kanekoらは、日本語の擬態語や擬声語を聞いた人の脳の中でどんなことが起こるかをfunctional MRIを使った実験で研究した。
Kanekoらによれば、擬態語・擬声語を聞いた人では脳の右側の上側頭溝周囲が活動を増すという(原文ではright posterior superior temporal sulcus。訳語が間違えてたらご指摘ください。
Kaneko J et al. “How Sound Symbolism Is Processed in the Brain: A Study on Japanese Mimetic Words”. 2014. http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC4026540/)。
上記「キキ/ブーバ効果」では左側の角回であったが、Kanekoらの擬態語の実験では右側の脳の上側頭溝周囲という別の場所が活躍するというのは興味深い。
同じ実験結果が赤ちゃんや子供でも得られれば、擬態語の情報処理が生まれながら脳に備わっていることが証明される。

しかしながら、脳の生来の機能として擬態語が痛みの感覚を思い起こさせるという仮説には強力な反論がある。
擬態語の情報処理が先天的なものならば、別の言語の人にも通じるはずだというものだ。
実際には同じ日本ですら地域によって痛みの表現は異なる。
国立国語研究所の竹田晃子によれば、2011年の震災の際に医療ボランティアで東北に入った医師や看護師たちは地元の人たちの痛みの表現がわからなくて苦労したという(オノマトペラボ:http://onomatopelabo.jp/med…/column/column2_2/column_01.html)。
引用先コラムでは、東北の痛みの表現として「いかいか:するどく刺すように痛むさま」や「ざきっ:悪寒がして気分が悪いさま」、「どもっ:腹部や胸部が不快なさま」などを紹介している。
患者さんから「どもっとするんです」といわれてもドギマギしてしまうなあ。

擬態語を理解する、使いこなすことが人間にもともと備わった先天的な能力なのか後天的であとから教えられて覚えていくものなのかについて、言語学ではどう考えているのか。
ソシェールの『一般言語学講義』では、<言語記号は恣意的である>(岩波書店 1940年 p.98)と言っている。
言葉とものごとの結びつきは後天的、文化的なものだというスタンスである。
例外として、擬音語は<必ずしも恣意的でない>が<それはけっして言語体系の組織的要素ではない.その数からして存外に僅少である>(p.99)としているが、オノマトペそのものには大きな関心を払っていない。
前述のKanekoらの論文の中でも擬態語・擬声語・擬音語などのオノマトペはアフリカ諸国語と東アジア語に豊富だとしており(introduction)、欧米諸国ではオノマトペについてあまり関心がないのかもしれない。

擬態語の脳の関連についてまだまだ知りたいことは尽きないが、ここらへんでいったん考えるのをやめておくことにしよう。
考えても考えてもきりがないし、あまり考えすぎると頭がずきんこずきんこしてくるからである。
(FB2015年12月8日を再掲)

 

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