死、人間、社会(R)

「この間厚生労働省の資料を調べマシタらネ、おどろきマシタ。なんトネ、日本人の死亡率は、100%、ナンデスネ」
死生学を日本に広めた哲学者、アルフォンス・デーケン先生の講演の、つかみのギャグである。
このあと「人間は皆、必ず死んでいく。死に対して、最終的に人間は何にも出来ない。老いを止めることもできん、死を無くすこともできん、私の名前はデーケン」と名調子は続く。使っていた日本語の教科書が、デーブ・スペクターと同じなのかも知れない。

それはそうと、とかく忘れがちなのが人間はみな死すべき存在、mortalなものだということだ。

各論としての死は悲しいが、総論としての死は悲しいばかりではない。
 締め切りがあるからこそ皆仕事を頑張るし、いつか終わるからこそ夏休みは楽しい。

 

ラテン・アメリカの作家ボルヘスに「不死の人」という作品がある。

不死の人たちが住む街があって、無限の時間を持つ人たちがどんなに優れた文明を築き上げたかと思って訪ねてみたら、なにもしない精気のないゾンビのような人々がうろうろしているだけだったという話だったように思う。
人生の締め切りがない不死の人たちにとって、すべてはいつやってもよいこと=いまやらなくてもよいことで、不死の人にとってはすべてが無意味になってしまうのだ。
スウィフトも『ガリバー旅行記』にストラルドブルグという不死の人たちを登場させている。不死だが不老ではないというのが肝で、スウィフトというのは意地悪な人である。

しかし悲しいかな人間は忘れる生き物で、ついつい自分がmortalな存在だということを忘れてしまう。
老いや死はいつも他人のもので、自分だけはなぜか特別だ思ってしまい、うっかり「私なんだか死なない気がするんですよ」と口走ってしまったりする。千代か。
だから古来より賢人たちは「死を忘れるな」「常に死を思え」と言い続けてきた。
往年の名優、森繁久彌も、晩年常に周囲に言い続けていたのは、メメント・モリ、森繁を忘れるな、だったと言う(嘘)。

各界の第一人者の方の話を聞くと刺激される一方で少し淋しくなることがある。
飛ぶ鳥を落とす勢いの方ほど、人間は無限に強いものだと思っている節があることだ。
口には出さないものの、病気になるのは弱いからだ、自己責任だと思っているようなところがある。
そうした人間観に立脚して作られた社会制度や会社というのは、どうしても普通の人間に無理を強いるものになってしまう。
昔は、「こういうマッチョイズムが強いリーダーも、自分が病気になったら考えが変わるだろう。それまで待つしかないか」とあきらめていた。しかしあるとき自分の間違いに気づいた。
マッチョイズムの強いリーダーが病気になってもリーダーの考えが変わるわけではない。ただ単に、病気になったリーダーが失脚して、新たなマッチョイズムの強い新リーダーに変わるだけだ、と。

昔はそこを補完するために帝王学に「教養」が重視されていた。我がことと感じることは出来ないまでも、知識として文学作品を読み、「なるほど幸せな家庭の形は一つだが、不幸の形にはいろいろあるのだな」とか「財産があるからといって三人の娘に分け与えてしまうと引退してから邪険にされてしまうのだな」とかを学んでいた。
あるいは将来中央政府の役人になって経済政策をつくるような人も、大学では「赤い」経済学を信奉する教授に接して、考えの幅を広げたのだろう。

まあ「弱いは強い 強いは弱い」で、弱いからこそ人間は集団を作って強くもなれるし、それがまた別の問題を引き起こしたりもするのだが、そこらへんはまた。

とにもかくにも、人間の弱さ儚さいとおしさを知った人間が、一人でも増えるのを祈るのみである。
(FB 本日分)

 

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