『ゼロ秒思考』を読んで。(R)

思考はマラソンに似ている。
運動神経に恵まれた者が時間内にゴールのテープを切るのは苦もないが、運動嫌いな者はそもそもマラソンに参加しようとは夢にも思わない。
運動嫌いな者は、「走るの苦手なんだよね」と言い、マラソンなんて自分に無関係な競技だと思っている。
思考も同じで、思考嫌いな者は「考えるの苦手なんだよね」と口をそろえていう。
だが思考とマラソンが決定的に違うのは、きちんとした仕事をしようとすると、誰しも何らかの思考をすることを求められるということだ。
そんなときどうするか。
『ゼロ秒思考』と言う優れた方法がある。
24時間ほど前に知った。
Iさん、お勧めくださりありがとうございます。

便宜上、『考える』と『思考』を分けておきたい。
『考える』というのは漠然と思いをめぐらすこと。
マラソンのたとえで言えば、子供がただ単に野原を走るイメージだ。
これに対し『思考』は、なんらかの課題を解決すべく頭を使って最終的に行動につながる結論を出す行為と定義したい。
マラソンでいえば、スタートをして一定のコースを多少はぶれながらも一定の方向性をもって走り、時間内にゴールのテープを切る。
この場合、コースはいったり来たりしてはいけないし、早ければ早いほうがよい。
『考える』と『思考』の定義は思いつきなので、もっといい言葉を思いついたら差し替えていくことにしよう。

『思考』は最終的にアウトプットに至らなければならない。
「考えてるだけじゃダメ」とよく言うが、最終的に何らかの行動変容を起こすようなアウトプットまでつながればだれも文句は言わない。
そして行動変容につながるアウトプットは、人間の場合、言語化されたもの以外にはない。
特に周りの人を巻き込むような行動変容は、必ず言語化されているものだ。
『思考』のマラソンのゴールは言語なのだ。
「考えるの嫌いなんだよね」「考えるのってめんどくさい」という人が最も苦手とし嫌う部分がこの言語化である。

『思考』のプロセスを赤羽雄二はこう分解している。
感情が沸き起こる→考えが浮かぶ→考えを整理する→文章がある程度浮かぶ→メモに書く→課題解決に取り組む(赤羽雄二『ゼロ秒思考』ダイヤモンド社 2013年 kindle版 位置1143/1946)
感情が沸き起こり、それに対し何らかの考えが浮かぶところまでは誰もが自然にできる。
「走るの苦手」と言う人も、終電のドアがしまりそうなときは猛ダッシュする。
誰でもができる猛ダッシュを訓練していくことによって、マラソンができるようにしてくのが『ゼロ秒思考』の方法だ。

『ゼロ秒思考』の方法はいたってシンプルだ。
A4の紙を横長に置き、解決したいことや悩みなどのタイトル、4〜6行の本文、日付を1分以内にスピーディに書きあげる。
<頭に浮かぶまま、余計なことを考えずに書く。感じたままに書く。むずかしいことは何も考えない。構成も考えない。言葉も選ばず、ふと浮かんだままだ。>(上掲書 位置815/1946)
このメモは時間も場所もかまわず書くのがコツだ。
ただし、1日10枚必ず書く。
<思いついたこと、気になること、疑問点、次にやるべきこと、自分の成長課題、腹が立って許せないことなど、頭に浮かんだことは何でも書く。頭に浮かんだそのまま、フレーズを書き留める>(位置917/1946)のである。
もやもやとした思い→言語化の猛ダッシュを1日10本ずつ繰り返していくのだ。

面白いのは1分以内で4〜6行をばんばんメモに書いていくこの『ゼロ秒思考』の方法が、仕事以外にも有用なことだ。
家庭や職場の悩みや自分の思いなどもすべて1分以内にメモとして書きなぐる練習をする。
悩みごとの多くは人に話すと楽になる。
やもやとして形にならないネガティブな思いが人に語るために言語化されることでシンプルになる。
漠然とした不安を有限の目に見えるものに形を変えるのが重要なのだ。
不安や悩みはどこからともなくわきあがり心のどこにでも入りこむ気体であり、アイディアや思いつきはいつ消えて流れ去ってしまうかわからない揮発性の液体である。
そうした気体や液体を、いつでも見える形に結晶化<クリスタライズ>して頭の中から取り出していくのが言語化だ。
繰り返しになるが、考えるのが苦手と言う人が一番苦痛とするプロセスが言語化である。

言語化により悩みを軽減する手法の象徴は人生相談だ。
新聞の人生相談でも、回答者が具体的に悩み解決のアクションをとってくれることはほぼあり得ない。
たいていの場合、回答者の個人的な体験に基づく一般論が展開され、読者としては「こんなの誰だって言えるよ」と思いながら読む(北方謙三は別)。
ただあれはあれで意義があって、もんもんとして悩んでいる新聞読者が自ら筆を取り言語に落とし込んだ段階で、悩みは半減しているのだ。
言語化することによって悩みを減らす手法は、キリスト教の懺悔、願い事を言語におとしこむ祈りや絵馬などにも見ることができるだろう。

言語によって不安が解消していくという過程は意外なことに娯楽にもみることができる。
伝統的なスタイルの漫才ではボケとツッコミの二人が会話をするが、ものすごく単純化すると、ボケ担当の者がおかしな非常識なことを言い聴衆を不安に落とし入れ、ツッコミがそれをスピーディに言語化し安全な常識地帯に連れ戻すことで聴衆がいいようのない不安から解放されて笑い生じる。
笑いは不安や恐怖からの解放によって生まれることがある。
ボケ役が「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と言った途端、多くの聴衆の意識下で「この人は何て非常識なことを言っているんだろう。誰かいさめなくてはいけないのではないだろうか」と不安が生じるが、次の瞬間、ツッコミ役が「やめなさい!」ということで聴衆は「そうだよな」と常識の世界に連れ戻されて安心し笑うのだ。
ボケ役は聴衆を非常識の危険地帯に連れていかなければならない。
「信号が青のときに渡りましょう」というのはボケとして成立しないのだ。
そして聴衆に生じた漠然とした不安を言語化するだけでもツッコミは成立する。
ツッコミの非常識な発言にびっくりした顔で「ほんまかいな」と言うだけでよいのだ。
不安を解消するための言語化を超高度に行っただけでなく、非常識を受けて常識の世界に聴衆を引き戻しつつも想像していなかった場所に連れていくのが『たとえツッコミ』である。
ほんまかいな。

『ゼロ秒思考』の話が気が付いたら漫才の話になってしまった。
どうやら『ゼロ秒思考』をめぐる思考のマラソンはコースを間違えたようだ。
なんとかして正しいコースに戻し、それなりにゴールのテープを切りたいと思っているところである。
(FB2015年2月15日を再掲)

 

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