『Facebook』プロフィールをトリコロールにする前に考えたいこと、の前に感じたいこと。

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129人が、テロの犠牲になった。
フランス、パリでの惨劇。

何を言うべきか、何が語られるべきかはわからない。言うべき立場、語るべき立場にいるとも思わない。
ただあるのは、哀しみ、恐怖、無力感。

「寛容でない者に対し、どこまで寛容であるべきか」というのは昔からのテーマだし、『シャルリー・エブド』の風刺画との関連、シリアへの空爆、フランス以外でも日々人はテロや戦争によって殺されていること、たくさんのことが語られるべきなのだろう。
ここぞとばかり冗舌に、フランスとイスラムの関係を書いたり、アルジェリア移民の子弟が育つ、バン・リューと呼ばれる郊外と見えない差別について述べることもできるかもしれない。
ライムスターの曲「911エブリディ」を引用しつつ、テレビに映っていない場所にも日々テロの犠牲者がいるのだと訳知り顔で言うこともできるだろう。

11月15日に書かれた、ふじいりょう氏の「『Facebook』プロフィールをトリコロールにする前に考えたいこと」という記事は、問題提起として誠実に書かれたものだと思う。
それでもなお、そこにある哀しみという感情を直視し、ぼくはfacebookの自分の顔をトリコロールに変えた。たくさんの何も悪いことをしていない人たちが、いきなりテロリストに殺されたと聞いて、ただただ哀しい、というだけではダメだろうか?

犠牲者のために具体的なアクションをとったわけでもないので、何の足しにもならないのはわかっている。

思い出されるのは4年前のことだ。
3月11日の震災と原発事故。
後から振り返れば、結果的に関東地方の多くは安全地帯だったわけで、被災者の方々に「いい気なものだ」と言われても仕方がない状況だ。だが、あの時点では関東地方もどうなるかわからなかったのも事実だ。日々、不安だった。
そんな先の見えない不安な中、世界中からアップされた「Pray for Japan」「Rise Again, Japan」の動画やメッセージを毎夜ぼくは見て、涙を流した。遠く離れた場所から、誰かがぼくたちのために祈ってくれている、と思ったのだ。

 

だから、ぼくはfacebookのプロフィールをトリコロールにした。
ただ、それだけのことだ。
今はただ、犠牲者の冥福を。