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『シャルリー・エブド』事件に思う(R)

以下、1月20日に書いたものを再掲。空爆が最善の結果をもたらすとは決して思わない。しかし自信をもってこうすべきといえるだけの案も無いのが正直なところ。

「右翼は凶暴で、左翼は冷酷だ。
イデオロギーによって結果が肯定されるわけではない」(エルネスト・チェ・ゲバラの言葉とされるが、出典確認を要す)

パリ新聞社襲撃事件について考えた。
社会の安寧を最優先課題とした時、実はこの事件を「表現の自由への挑戦」、「西欧vs.イスラム」の図式で捉えるのは得策ではない。...
表現の自由」はどこまで許されるか、どこまでが「表現の自由」でどこからが「誹謗中傷」かという線引きは果てしない論争になるだろう。
芸術か猥褻かが、結局のところ個別具体を見て判断するしかないように、前もって抽象的に「表現の自由」と「誹謗中傷」を一本のラインで区切ることは不可能だ。

ある種の笑いにはユーモアがない。
人間の奥底に潜む、他人を見下したい、自分と違うものを嘲笑したいという底暗い欲求が、ある種の笑いの源泉であるのは否定しがたい事実である。
モンティ・パイソンは奇妙な歩き方を模倣し笑いをとり、志村けんは老婆や変質者らしき中年男性をマネして視聴者を喜ばせる。
そこに一片の差別心も存在しないと言い張ることはできるだろうか。
笑いや芸術を差別や猥褻と異なったものにしているのは、何を表現しているのかではなくどのように表現しているかという過程や表現技術にこそあるのだ。
「シャルリー・エブド 風刺画」で画像検索すると出てくる「Une Etoile est nee!」というキャプションのついた絵が、笑いや風刺として成り立っているのかはエスプリの国フランスの住人が決めることだ。
ちなみに、ヴォルテールはエスプリについて<あるときは斬新な比較であり、あるときは巧みな暗示である。(略)それは自分の思うことを、人に推測させる余地を与えるために、半分しかいわない技術である。>と定義しているという(河盛好蔵『エスプリとユーモア』岩波新書 1969年 p.100)。

今回の風刺画が表現の自由の範疇なのかどうかは実はどうでもよい。
というより、その議論をし始めるとキリがない。
表現者は時に確信犯的に社会のタブーを犯す。
松本人志はかつて、「笑いが取れるんやったら、親父が死んだらその死体とダンス踊ってもええと思ってる」というようなことを言っていたはずだ(週刊朝日の連載で読んだ。たぶん『遺書』に収録されていると思うが、手元に見当たらない)。
タブーを犯した表現者の技術が優れていれば笑いが発生し良識ある市民はひと時タブーから解放されて魂の自由を味わうことができるし、表現が失敗すれば不見識・非常識・不謹慎・サムいの誹りを受けるだけだ。
リスクは時として表現者の身体にまで及ぶが、それでもなお表現したいというのが表現者の業(ごう)なのであろう。

今回の事件が表現の自由への挑戦か否か、表現の自由はどこまで許されるのかなどよりもはるかに重要なのは、十数人の市民が突然の暴力によって命を奪われたということだ。
そこにこそフォーカスを当てなければ、今回の事件をどう考えていいのか議論が発散するばかりだ。

そしてまた、社会と世界の安定を最優先で考えるならば、今回の事件を「表現の自由を尊重する西欧社会vs信仰をもっとも尊ぶイスラム社会」の構図で語ることは危険を伴う行為である。
互いの憎悪と不信をあおり、それぞれに加勢する者を増やし、追随する者を生み、戦火を拡大するばかりだからだ。
今回の事件をどう解釈するかによって、今後の展望は大きく変わってくるだろう。
「西欧vsイスラム」の図の中に位置づけた場合には今回の事件は普遍性を帯び、二度三度四度と同様の事件が起こり憎しみの連鎖が果てしなく続く。
テロはテロと世間に認識された時点でテロとなり、時として追随者や模倣犯、国際的な共感者を生む。
しかし今回の事件をフランス社会のアウトローによる例外的な凶悪事件として処理していったならば、西欧vsイスラムのいさかいの種になることは避けられるかもしれない。
イスラムへの冒涜に対する聖戦ではなく、表現の自由に対する挑戦でもなく、アウトローによる例外的な凶悪犯罪として位置付けることによって、他への飛び火を最小限にすることができるのではないだろうか。

今から14年前の9月、双子のビルに飛行機が突っ込み、すべてがそれまでとは変わっていった。
世界で最も巨大な国の最高権力者は、この事件を西欧文明に対する挑戦とし、ならず者国家悪の枢軸を次々と指名し、愛国心を鼓舞してひたすらに戦線を拡大していった。
歴史にifは無意味だし、911がテロであることに異論は全くない。
だがもし、アメリカ政府があの事件を、はらわたが煮えくり返りつつもあくまで狂信者による例外的な凶悪事件と位置づけて、表面的には国際的な警察の力で、軍事力を用いるのは水面下にとどめながら解決しようとしたならば、世界は今とは違ったあり方をしていただろう。

私たちは常に、歴史の岐路に立っているのだ。