医療とIT考。
新聞や雑誌で「ITで医療過疎を解決!」みたいな話を見ると、いつもホントかなと思う。
違和感の原因について、つらつらと考えてみた。
一番は医療の持つウェットでウォームな面が軽視されていること。
問診をし、診察をし、検査をして薬を出すだけが医療であるならばあるいは遠隔診断でことが済むかもしれないが、それは医療の半分でしかない。
face to faceで向きあい、顔や表情、声のトーンやかもしだす雰囲気を感じ、手で脈をとり、データの塊ではなく、人間そのものとして接してもらうことを患者さんが望む限り、医療とはウェットでウォームなものであり続ける。
ここらへんは、ITと書物の関係に似ている。
2002年発刊の「ネクスト・ソサエティ」でドラッカーはこう述べた。
「電子情報で送り、ディスプレーで見てもらい、ダウンロードさせるという事業はまだ成立していない。購読者は媒体として、まだ紙を好んでいる」。
(P・F・ドラッカー『ネクスト・ソサエティ』 2002年 ダイヤモンド社 p.121)
それから11年経ち、様々な電子媒体が出ているが、私も含め多くの購読者が電子データをモニターにダウンロードして読むのではなく、amazonで物質としての書籍を取り寄せて読むことを好む。
読書という行為が、たんなる文字データの摂取ではなく、モノとしての本に触れ紙をめくるというアナログな部分を含んでいることがわかる。
もちろん電子書籍は今後もさらに売り上げを伸ばしていくだろうが、2050年においてさえ印刷された本は一定数生き残ると予想される。
(『2050年の世界』 英『エコノミスト』編集部 文芸春秋 2012年 p.118)
ITが医療過疎を救うという能天気な論への違和感の第二は、ITと医療が補完財なのか代替財なのかという視点が欠如していることだ。
代替財というのは互いに代用できるもの同士の関係性で、アメリカ的に言えばホットドッグとハンバーガーの関係である(マンキュー『経済学 Ⅰミクロ編』 東洋経済 2005年 p.100)。
すなわち、ホットドッグの代わりにハンバーガーを食べることができ、ハンバーガーの代わりにホットドッグを食べることができる関係性を代替財と言う。
日本的に言えば、ごはんとパンの関係性がこれにあたる。
これに対し、補完財とは一緒に使われることで互いの価値を高めるもの同士の関係性で、マンキューは例としてガソリンと自動車などを挙げている。
これもまた日本的に言えば、ごはんとふりかけなどが補完財にあたるだろうか。
つまり、ITと医療が代替財ならば医療リソースがなければITで補うことが可能だが、ITと医療が補完財ならば両方そろってはじめて相互の価値が高まるというわけである。
よい電子カルテは医療の効率や質を高めるが、電子カルテが医療者の代わりをするわけにはいかない。
すなわち、ITと医療は代替財ではなく補完財なのであろう。
このように、さまざまな二つのものを代替財か補完財かと考えてみると、非常に物事がクリアカットになる。
しかしながら何事もやりすぎは禁物で、これはフランスの事例だが、パンの代替財としてケーキを提案したところ命を落とす羽目になった王妃もいるという。
また、焼きそばとパン、お好み焼きとごはんの関係が補完財なのか代替財なのかは、
今後の検討課題としたい。
(FB2013年2月21日を再掲)