さらに死生観について考える(R)

先日、「死を語る夕べ」という集まりに参加した。
ごく少人数で催された真面目な語らいであったが辛気くさいものではなく、鉄板焼をつつきながらのフリートークである。
ビールおいしゅうございました、鉄板焼おいしゅうございました。
幸吉か。

 

かの孔子ですら「未だ生を知らん、いずくんぞ死を知らんや」、いまだ生きるってことをよく知らないのに、どうして死を知ることが出来るだろうか、と言ったテーマである。
もちろん結論が出る訳はない。
「子供のころ、死について考えると恐ろしくなった。不思議と今は怖くない」、「いや、守るべきものが出来た今のほうがむしろ死ぬのは恐ろしい」などなど議論は尽きなかった。
死について考え語るとき、僕たちはどうしても「なぜ生きるのか」ということも一緒に考えることになる。
生きる意味も教えられずにこの世に送り出され、気づいたときには死へのカウントダウンが始まっている。
何のために生きるのか、それを探すために生きるのさなんて格好つけて言うことは出来ても、それがほんとかどうかわからない。
わかっているのはただそこに生があり、死への底知れぬ恐怖があるということだけだ。

なんのために生きるという理由は永遠の謎だし、もちろん人によって答えは違う。
ただ直視すべきなのはぼくらの腹の底にある、盲目的で動物的な生への執着だ。
生に価値があるかなんか知らない。
生きることに意味があるかなんか関係ない。
ただただひたすらに生存し続けたいという動物的本能を無視してしまうと、すべては机上の空論となる。

生命誕生以来、あまたの種が生まれた。
もしかしたらその中には、あまり生への執着が強くないものもいたかもしれない。
しかし大自然の過酷な生存競争の中、勝ち残る種とはどういうものだろうか。
生への執着が強い種と弱い種がいたときに、ほかの条件が同じならば生への執着が強いものが生き残る。
つまり僕たちは、生への執着の強い種の末裔であり、腹の底の生存意志に理由などないのだ。

生存意志とそれを活かす知恵が薄まったとき、生存の危機は訪れる。
それは個体にとって当然なことだし、おそらく企業や組織、国家についても言えることなのだろう。
(FB2014年12月2日を再掲)