笑点・サウダージ‐歌丸さん、『笑点』引退

歌丸さんが『笑点』の司会者を引退するというニュースは想像以上にある種の人々を動揺させた。ある種ってなんだ。

 

ここ何年も『笑点』を見ていないくせに、目をつむればあのイントロが聞こえてくる、座布団を運ぶ山田くんの姿が見えてくる。そしてもし日曜夜にテレビをつければ、そこには想像と少しも変わらぬ『笑点』が映し出されるはずだ。

歌丸さんは『笑点』に50年間も出続けたという。

50年!

ジャニーズだってAKBだって、50年間全国ネットのテレビのレギュラーはとれないだろう。変わらぬことの強さがここにある。
笑点』という題名が三浦綾子の小説・ドラマの『氷点』のパロディだったことなど覚えている人などはいないくらい長い間『笑点』は続いている。

 

笑点』はぼくらに二つの乾いたノスタルジアを呼び起こす。個人的なものと共同体的のもの。
決して戻れぬ子供時代の日曜日の夕方。
無限の可能性を思わせる土曜日の放課後から時は経ち、「サザエさんシンドローム」の予兆を感じさせ始めるのが大相撲中継とそれから続く『笑点』だ。
次第に窓の外は暗くなる。

「あーあ、日曜日も終わるなあ。たいして何もなかったなあ」という諦めが強くなっていく。

明日から学校なことが憂鬱なわけではない。形容しがたい空っぽな感じの心に、『笑点』のイントロが流れ込んでくる。

共同体的ノスタルジアとはなにか。

笑点』がなぜこれだけ長く続き、高視聴率を保っているかの秘訣として、キャラクター設定の明確化がよく挙げられる。
先代円楽「馬面」、歌丸「社会派」、旧・楽太郎(現円楽)「インテリ」、こん平(チャーザー村こと千谷沢村出身)「明るいお調子者」といったキャラ設定を割り振り、それを徹底的に演じさせる。予想外のことはなにも起こらない。

歌丸は時に権力批判をするが、それはチクリとしたもので、決して国民の怒りに火をつけてデモを誘発させるほど過激なものではない(当たり前だ)。

与えられ奪われる座布団はまた、世間的評価のメタファーだ。
人は持ち上げられ、引きずりおろされる。

しかしその上げ下げの範囲は0-10枚の間に限られる。

逆転不可能なほどの格差はつかず、「かわいそうだから1枚やりなさい」と底辺層は救済され、「今のはひどいから全部持っていきなさい」と出すぎた杭は打たれる。
日曜夕方に安心してみていられる程度の、程よい格差と競争社会。
10枚を越えて共同体から飛び出ることはほとんどなく、持てる者は奪われ、持たざる者は与えられる。見えざる神の手ならぬ、見えてる上の手により、格差は調整され、共同体内の定常状態は保たれる。

我々が日曜夕方に『笑点』を求めるのは、それぞれの役割が明確で格差も小さく定常状態が保たれる古の共同体をそこに見ることが出来るからだ。『笑点』、それはムラの寄合、親戚のおじさんたちの宴会の幻影。
スピーディに進む競争と格差、入れ替わり立ち代わり派遣されてくる同僚、次から次へと変わって行く求められる役割、そんなものに疲れたとき人は、『笑点』を観るのだろう。ほんとか。

 

 

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