病いに苦しむ人に、伝統宗教は何ができるか(R)

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昔のノートを読み返していて、イギリス人仏教学者から話を聞いたときのメモを発見。
医療、特に終末期医療のあり方を考える上で、伝統宗教を知ることは必須だと思い、お話を伺った。

難病や事故の後遺症に苦しむ人に、伝統宗教はどのような救いを与えられるのだろうか。
そうたずねると、しばし考えて彼は言った。

 

「……仏典には様々な困難に出会う人々が出てきます。
幼い子供を病いで亡くし、それでもなおその子の病気を治して欲しいと願う母親、予期せぬ悲劇、理不尽な出来事。
なぜある人があるタイミングで病いに倒れ、命を落とすのか、どうしてその人でなければならないのか、それを説明することは私にはできません。
ただ、仏教の教えは、どんなにちっぽけな存在であっても、どんなにひどい世の中であっても、それでもなお、私たちはnoble life、気高い生きかたをすることが可能だ、ということです。

悲劇や理不尽な目にあっても、「にもかかわらず」気高く生きることができる、それこそが救いだ、とその人は言った。
その答えは、私に死生学者のアルフォンス・デーケン先生に会ったときのことを思い起こさせた。

 

デーケン先生は堪能な日本語で言う。
死にゆく人々にとって、最も大切なのはユーモアだ、と。そしてユーモアというのは、どんなにつらい状況でも、どんなにひどい状態でも、「にもかかわらず」、笑うことだ、と。

 

ちなみに、デーケン先生のお気に入りの自己紹介は「私はなんにもでーけん」である。

生きていく上で生老病死が不可避であるように、他国語でユーモアを語る際、人は皆、デーブ・スペクター化を避けられないものなのだろうか。
(2013年3月28日を加筆再掲)

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