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諸行無常2.0

「今はネットがあるから知識を覚えるつめこみ型の勉強は時代遅れ。情報は必要ならその場で検索すればよいのだから」的なことはよく言われる。けれど、ネット検索で上位に出てきたからといってその情報が正しいかどうかはわからない。
病気や治療についてのネット情報を見ればそれは明らかで、「○○症候群」と検索マシンに打ち込むと瞬時に玉石混交の情報がモニターに踊る。
 
ネット文化の初期にはアカデミズムやIT技術者などの専門職やギークの人々だけが情報発信元だったが、今は幅広く情報発信されている。結局ネットで検索したからといっても、道行く人をランダムにつかまえて話を聞くのと変わらない状態になっている。
ネットが選ばれた者のための技術だったのは昔のことで、今はネットは「みんなのもの」になった。「みんなのもの」になったネット情報には、「当たり外れ」が 出来るようになったのだ。
 
「みんなのもの」となったネット上の情報が正しそうか正しくなさそうかを見極めるには読み手に「相場感」(元の意味とはちょっと違うかも)が必要だ。その情報が正しそうかそうでないかを感じる「相場感」を養うにはある程度の基礎知識・リテラシーがないといけない。そして、そのためにもある程度の基礎知識を詰め込んでおかないといけない。人類が(ある程度の)「詰めこみ型」の教育・学習から解放されることはないのだろう。

ネットの普及に伴い、「選ばれし者のためのもの」から「みんなのもの」へと移行するにつれ、ユーザーサイドの「楽さ」が減るという現象をもう少し考えてみる。

ネット技術により在庫管理が不要となり在庫循環がなくなり、結果、景気の山と谷がなくなる、みたいな論(ニュー・エコノミー論)は2000年ころに言われていたと思うが、結局ネット技術は景気の波をより大きなものに増幅してしまった。振り出しに戻る、というやつだ。

現在、「人工知能・AIが人間を労働から疎外する/解放する」という論があるが、上記のネット黎明期から普及期のユーザーサイドの利便性の変化を広げて考えると、AIが人間を労働から疎外する/解放するのもしばらくの間かもしれない。
「選ばれし者」だけがAIをいじり管理する時代から、AIが「みんなのもの」に移行していくと、いろんな人がAIをいじくりまわし、AIに「当たり外れ」が出るようになると、AIの出したものを選んだり管理したりする必要性が出てくるかもしれないからだ。山田胡瓜のマンガ『AIの遺電子』みたいにAIのための医者が必要になったりね。山田胡瓜は新世紀のブラッドベリだよなあ。
「当たり外れ」のあるAIの管理・選別といったような新しい仕事が出てくるとなると、結局「振り出しに戻る」だけかもね。

まああれですよ、諸行無常ってやつですよ。

 

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