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夕方、メトロにて~セント・オブ・ウーマン

<やがて私は、陰鬱だった一日の出来事と明日も悲しい思いをするだろうという見通しに打ちひしがれて、何の気なしに、マドレーヌのひと切れを柔らかくするために浸しておいた紅茶を一杯スプーンにすくって口に運んだ。とまさに、お菓子のかけらのまじったひと口の紅茶が口蓋に触れた瞬間、私のなかで尋常でないことが起こっていることに気がつき、私は思わず身震いをした。ほかのものから隔絶した、えもいわれぬ快感が、原因のわからぬままに私のうちに行きわたったのである。人生の苦難などどうでもよくなり、災難などは無害のものにすぎず、人生の短さなど錯覚だと思われた。それは恋愛の作用と同じで、私を貴重な何かの本質で満たしたのだ。(略)

 そのとき突然、思い出が姿を現した。>(プルースト失われた時を求めて①』高遠弘美訳 光文社古典新訳文庫 kindle版)

味覚や香りは感情や記憶と強烈に結びついている。
マドレーヌを浸した紅茶の味で子供のころを思い出したり、少しホコリっぽい匂いで実家の押入れを思い出したり。

匂いや味によって強い情動ととも記憶が呼びさまされることをプルースト効果と呼ぶ。

 

夕方地下鉄に揺られながらウトウトしていると、懐かしい香水が鼻腔をくすぐった。20数年前の光景が鮮明に蘇る。

大学時代の憧れの人がつけていた香水の香り。
慌てて顔を上げるがあの人ではない、まったく別の見知らぬOLさんがつり革につかまって立っているだけであった。

 

なんて名前の香水ですか、教えてもらえないでしょうか。
そんなふうに聞いてみたい衝動に駆られる。
聞いてどうなる、ただの不審者だ。理性が衝動を押し留める。

 

逡巡しているうちに降りる駅が近づき、ぼくは席を立ち出口に向かう。
ドアが開く。人の波が動き出そうとする。


やっぱり聞いてみよう。衝動が理性に打ち勝ち、ぼくは振り向く。
再び、香水の香り。


焦る気持ちとともに香りの源に目を向ける。

そこには美しき黒髪の凛々しいOLさんの、隣にいるチャラい彼氏の姿。お前の香水か。

 

オシャレ男子なんか、嫌いだ。

 

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