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日本の医療費、40兆円を突破ーマクロ医療とミクロ医療(R改)

日本の医療費総額は、2014年度に40兆円を突破した。原因は高齢化と医療技術の進歩だ。
こうしたニュースが出ると必ず、「終末期の患者に過剰な治療をしているせいだ。医療現場はそうした過剰医療をやめるべき」という話がでる。実際にはもっとえげつなく、「終末期患者にお金をかけても無駄。医療費削減のため、医療現場は終末期の過剰医療をやめろ」と言われることさえある。

医療者としての正直な感想を言えば、「そんなことこっち(医療現場)に言われましても…」というところ。

 

一番の疑問はマクロとミクロを混同してよいのかということだ。

医療費総額の増大という国全体のマクロの課題解決を、医療現場というミクロのレベルに求めると、歪みが生じる。

 

経済学には経済全体の動きを研究するマクロ経済学と、個々の産業や労働者などの動きを研究するミクロ経済学がある。
 <ミクロ経済学マクロ経済学は密接に関連している。経済全体の変化がたくさんの人々の意思決定から生じている以上、関連するミクロの意思決定を考慮せずにマクロ経済の発展を理解することは不可能である>(マンキュー経済学Ⅰ ミクロ編 第2版 2005年 東洋経済新報社 p.40)一方、<この二つは独立した研究分野である>(上掲書 同頁)という。

 

同様に、医療にもミクロ医療とマクロ医療がある。
マンキューをもじれば、医療全体の変化がたくさんの人々の意思決定から生じている以上、関連するミクロの意思決定を考慮せずにマクロ医療の発展を理解することは不可能であるが、マクロ医療とミクロ医療も関連するが独立したものと考えるべきだ。

 

医療費総額と医療現場での意思決定の話に戻る。
確かに、医療費のうち一番お金がかかっているのは死亡する直前の時期だ。
厚生労働省によれば、日本人一人が一生に使う医療費は2500万円(http://www.mhlw.go.jp/…/iry…/database/zenpan/dl/syogai22.pdf
2010年度推計。自己負担額ではなく、保険料や公費分も頭割りしたもの)。このデータには終末期にかかる医療費は明記されていないので今野の研究を参照すると、人が死亡する前1年の医療費は、それ以外の時期の人の平均27.9倍にものぼるという(今野広紀 生涯医療費の推計―事後的死亡者の死亡前医療費調整による推計― 医療経済研究 2005
http://www.google.co.jp/url…)。

 

これは統計的な数字で、個別にみると重い病気を患い医療費がたくさんかかる人もいれば、幸いにして健康体に生まれて少額の医療費がかからず大往生を遂げる人もいる。
それはともかく、こうしたデータをもとに終末期医療にお金がかかるのは「お金のかけかたが間違っている」という論を述べる人は多い。

 

ただ、終末期に医療費がかかるというのはあくまでデータ上のことで、実際にはいつが終末期なのかは全部が終わってみないとわからない。

 

80歳の人が肺炎にかかって、医療機関が総力をあげて治療するとする。
緊急入院となり集中治療室のベッドを確保し、人工呼吸器をつけ高価な薬剤を惜しげもなく投与する。
刻一刻と変わる病状を把握するためくりかえし血液検査をし、動脈に含まれる酸素の濃度を測り、レントゲンや肺のCTを何度も撮る。
それでも症状は悪化し続け、腎臓や肝臓の機能も落ち、機械を使って毒性物質を除去する。
連日連夜の徹底的な治療のおかげで奇跡の回復を遂げ、その人が社会復帰すれば「現代医学により一命をとりとめた」という評価になるし、治療があと一歩及ばず命を落とせば「濃厚で過剰な終末期医療」という評価になる。
重要なのはすべての結果がでないと「医学の勝利」なのか「濃厚で過剰な終末期医療」なのかがわからないことだ。


治療中、「これはなんとかなる」とか「これはちょっと厳しいな」と医療者が感じることはあるし、患者さんの年齢や基礎的な体力や病気の勢いから経験的にどれくらい治療が成功しそうかという目安みたいなものはあるが、いずれにしても緊急入院したそのタイミングでは、治療の結果はやってみないとわからないことが多い。
なにが「濃厚で過剰な終末期医療」かは、結果論のことも多い。

 

終末期医療費談義に感じる疑問、マクロ医療とミクロ医療を混同することによる歪みについてもう少し書く。

 

前述のように、「医療者が終末期や超高齢者の治療をしすぎるから医療費が増える。医療者は生と死の哲学をもっと持って、なんでもかんでも治療するというのはやめるべき」という意見を結構聞く。こうした意見は一見もっともらしいのだが、そこに二つの危険性が潜む。

 

危険性の一つ目は、現場裁量の暴走だ。
医療機関の社会的役割とはなんだろうか。
「病気やけがを可能な限り治療し、命を救うことに最大限努力する」ことである。
人はみな、上記の社会的役割を医療機関が果たすことを期待し、病気やけがの際に病院に飛び込む。にも関わらず、そこで技量的・設備的限界以外に、医療者側の死生観といった目に見えないファクターが入ってきたらどうなるか。

 

「命は最大限救うべき」という死生観を持った主治医にかかった人は救命され、「こんな状態で一命をとりとめても悲惨なだけ。であれば無理に治療しないで死なせてあげたほうがこの人のため」という価値観を持った主治医にかかった人は命を落とすという状況を生み出すことになる。
死生観や倫理観が病院の看板や主治医の名札に書いてあるわけでないから、どの病院やどの主治医でどういう結果になるのかは前もってわからないという、生と死のロシアンルーレット状況が生まれる。「なんでもかんでも治療するのはおかしい。医療者は死生観に従い、時には治療を自重すべき」論者は、そうした状況を許容するのだろうか。

 

あくまで個人的考えだが、ぼくは「世の中には必要な悪もある」という信条を持った警察官がいてもかまわないし、「勉強は教わるものじゃない、自分でやるものだ」という考えの教師がいてもいいと思っている。近代国家や社会は個人の内面に土足で踏み込まないものだからだ。
けれど最低限勤務時間中は、自分の信条や考えがどうであれ、目の前に悪人がいれば警察官は捕まえるべきだし、落ちこぼれの子がいたら教師は教えるべきだ。それがそれぞれの社会的役割だし、プロフェッショナルというものだ。

だから、「病気やけがを治療し、命を最大限救う努力をする」ことが医療機関の社会的役割であれば、どんな死生観を持っていようが命を救うプロとしてふるまうべきであると思うのだがどんなもんだろう。

 

「なんでもかんでも救うべきじゃない」論に潜む危険性の二番目は、命の価値の選別を容認しているということ。
高齢だからといって治療をしないという考えは、治療の甲斐がない不治の病いだから治療をしないという考えと地続きだ。不治の病いだから治療をしないという考えは、重い遺伝的病気を持っているから治療をしないという考えに転換しうる。
重度の認知症だから治療をしないというのであれば、重度の認知症の人に生きる価値がないという考えと隣あわせだ。それは人種によって生きるべきとか生きるべきじゃないとかを決めるような思想と地下でつながっている気がする。

 

もちろんそうは言っても常に検証は必要で、公的医療の限られた人的・財政的リソースをどこに振り分けるかは大きな課題なのは言うまでもない。
災害現場でのトリアージや種々のガイドライン、どのような状態のときに手術をするべきか否かの手術適応など、厳密には「命の選別」とも解釈できる状況はある。
だがそれはあくまで可視化されたマクロレベルの話で、個々の医療者の胸先三寸という見えない部分でミクロレベルで勝手に「選別」しているわけではない。

 

医療現場では日々葛藤があり、その葛藤の中でもがきながら新しい価値観が生まれてくるのだろう。
新しい価値観が生まれてくるには時間もかかるし、何がよくて何が悪いのか煩悶しながら一歩ずつ前に進むしかないのだが、それに比べて「なんでもかんでも治療するな」論はあまりに浅すぎると思う次第。

 

だらだらと長くなったが、言いたいのはただ一つ、医療費総額の増大というマクロの問題の解決を医療者の判断というミクロのレベルに求めると歪みが生じるということ。
じゃあどうするんだというクリアな答えも出ないし、だんだんと「見えない敵と戦っている」気分になってきたので、今日はここらへんで。
もっと考えを練らないとね。

 (FB2013年11月22日を再掲)

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