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絆と納豆(R)

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「きずなはね、切れたら結ぶ、切れたら結ぶの繰り返しや」。

 

糸に半ぶん、と空中に指で文字を書きながらH先生は言った。
H先生はそのとき86歳、京都で60年地域医療をやってこられた。
国民健康保険制度もないころから西陣の職人の家を一軒一軒回り、独居の病人がいれば疎遠な息子を探しだし、介護で疲労困憊したお嫁さんがいれば「あと数日だから」と励ましてきた。
まさに切れた絆を結び直してきた医者人生であり、冒頭の言葉は折に触れてぼくも思い出す。

 

もっとも、医療が結ぶ絆にもいろいろある。
知人の知人のそのまた知人の話だが、とある病院に、いつも仲むつまじく受診する八十代男性と若い女性がいたそうな。
大変おじいさん思いの孫むすめだと感心していたら、どうにもスキンシップが甚だしい。要するに、イチャイチャしているのだそうだ。
思いきってきいてみると、なんと年下の「恋人」だという。
考えてみれば、病院の受診なら奥様に怪しまれることなく定期的に出掛けられるし、帰りが遅くなっても「今日は混んでたよ」の一言ですむ。
神聖なる医療機関で逢い引きとはなんともうらやまけしからん話であるが、
なんというかまあ、通院患者の誰よりも長生きしそうな人であるのは間違いない。

 

さて、「絆」で思い出したことがあるので、コンクリートと砂利と納豆について書く。

 

大平健著『やさしさの精神病理』(岩波新書 1995年)によると、「絆」とはもともと犬や馬をつなぐ鎖や紐のことで、「きずな」とも「ほだし」とも読む。「きずな」と読むとポジティブな人と人との結びつきであり、「ほだし」と読むと、がんじがらめに互いの自由を束縛するネガティブな意味になるそうな(同書p.84)。
つまり、「絆」には良い意味悪い意味両面あり、「きずな」と「ほだし」はコインの両面だからこそ、人は「きずな」と「ほだし」の間で苦悩するのだという。

 

アメリカ社会を「人種のサラダボウル」と表現することがある。昔は「人種のるつぼ」といわれたが、まざりあうが溶け合わないのでサラダなのだそうだ。

 

ひるがえって、日本社会はどうあるべきか。
つらつら考えるに、これからの日本は納豆社会であるべきではないだろうか。

 

すなわち、ムラ社会的にがちがちに「ほだし」で固められた息苦しく身動きのとれないコンクリートではなく、尖った強固な個が寄るべなく互いにぶつかりあい、傷つけ擦り減り続ける砂利でもなく、ほどよい「きずな」と「ほだし」で粒ぞろいの個が結びつき、容易にはこぼれおちないような納豆社会こそ、目指すべき姿ではないだろうか。

そうした納豆社会を形成するにあたり、必要なのは熟成される期間とある程度の流動性である。「きずな」と「ほだし」がほどよく作られるには一定の時間も必要だし、ある程度かきまわさないとおいしい納豆にはならない。

 

では、納豆社会の敵はなにか。一言でいえば、「私心、わたくしごころ」だ。
緊密な絆も、自らの利益追求のために使われればたちまち社会を悪くしてしまう。発酵と腐敗は紙一重なのだ。

 

ではどうすれば粒ぞろいの個が絆によって結ばれ、適度な流動性を保ちつつ容易には社会からこぼれおちる者が出ないような制度を作れるのか。
それこそまさに論じるべき点であるが、納豆の話をしていたら口がねばついてきたので
ここらへんでおしまい。

 

皆様、よい週末を。
(FB2013年4月17日、19日を加筆再掲)

 

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