意志と知恵(R)ー上野千鶴子氏「日本の場合、みんな平等に貧しくなればいい」論に思う

社会学者の上野千鶴子氏がこう言った。
「日本は少子高齢化で、大量の移民も受け入れられない。みんなで平等に貧しくなりましょう」

資源輸入国の日本が、みんなで平等に貧しくなることを指向したら、それは「死」を意味する。豊かになったほかの国が、石油や食料をぜーんぶ買い占めちゃうから。

ぼくたちは、滅びるわけには、いかない。というわけで、2009年に書いたものを再掲。

 

1)『平成三十年』か『21世紀の日本』か~日本の未来像~

 今、日本において一番の問題はなんだろうか。私は社会を覆う閉塞感であり、希望の欠如ではないかと思う。希望とは何か。それは単純に言えば、明日が今日より良くなると期待できることだ。平成20年6月の内閣府による世論調査では、生活についてこれから先どうなっていくかを調査した。その結果、今後の生活が「良くなっていく」と考える国民はたったの7.4%であるのに対し、「悪くなっていく」は36.9%で、その約5倍もいる計算になる。しかも、前回調査では「悪くなっていく」と答えた人は29.1%だったが、今回は36.9%と増加しているのだ。これからの暮らしが「良くなっていく」という希望を持っている人は、日本ではたった7%しかいないのである。

「この国には何でもある。だが、希望だけがない」。

 村上龍の近未来小説、『希望の国エクソダス』の中で、主人公の中学生“ポンちゃん”が言う。小説の中では、近未来の日本は失業率が7%を超え、大幅な円安に苦しんでいる。そんな状況に絶望した中学生80万人がいっせいに不登校となり、独自のネットワーク「ASUNARO」を作る。彼らは大人顔負けにビジネスをし、語る。そして新たな世界へエクソダス=脱出するのだ。小説では中学生たちは、北海道に集団で移り住み、新たな共同体を作っていく。

 では、現実に生きる我々が現在の日本から脱出したとしたら、その先はどこへ続いているのだろうか。

 ここに2つの未来小説がある。堺屋太一の『平成三十年』と松下幸之助の『私の夢・日本の夢 21世紀の日本』である。簡単に設定を述べる。

『平成三十年』

 堺屋太一の『平成三十年』はもともと1997年から1998年にかけて朝日新聞に連載されていた近未来小説である。1997年は平成9年なので、連載当時から起算して約20年後の未来を描いている。
 小説は主人公木下和夫の妻、平美が消費税アップを嘆くところから始まる。小説の中で、平成30年の日本では経済は縮小し、インフレーションが進んでいる。平均物価は約3倍に上がり、グレープフルーツは1個500円、ガソリンは1リッター1000円である。日本経済の低迷により円安が進み、1ドル230円台。国民の負担も増大し、消費税を12%から20%に上げようという議論もされている。少子化と人口減少にも関わらず、東京への人口集中が続き、都心の過密はさらに悪化、一方で農村部、山間部は過疎化が進んでいる。新しい技術はあるものの、首都移転など抜本的な改革は官僚機構や既得権益層に阻まれて進まないままだ。
 ここで書かれているのは、日本の「暗い未来」だ。

『21世紀の日本』

 一方、松下幸之助の『私の夢・日本の夢 21世紀の日本』は昭和51年に書かれた。舞台は2010年、執筆当時からおよそ30年後を想定して書かれている。『21世紀の日本』の中では、日本は安定した堅実な経済成長を続け、政治は生産性が高く、世界中から理想の国として尊敬されている。中小企業は力強く活躍し、経営者と労働者は対立しつつ調和する関係である。都会と農村、都市と自然はバランスよく調和し開発され、過密も過疎もない。税金が効率よく使われているため、年々減税が進められている。
 こちらは一転して、「明るい未来」である。

 我々はどちらの未来も選択することができるはずなのに、しかし36.9%の国民が将来は「悪くなっていく」と考えている。日本には『平成三十年』の暗い未来しか待っていないと考えているということだ。『平成三十年』の副題は、『何もしなかった日本』である。

 だが、「何もしなかった」場合、もっと悪いケースもあり得るのだ。

2)最悪の場合、国は消滅し得る。

 1990年、東ドイツが消滅した。高校生だった私はベルリンの壁が壊されるさまをテレビで見ながら、新しい時代が来るのだという素朴な期待と軽い高揚感を覚えながら、その一方で思った。「国って、無くなるんだ」と。

 1991年、ソビエト連邦が崩壊。同じころ、ユーゴスラビア紛争が起こり、元同国民同士の殺し合いの末、後に解体。国というものは、確かに無くなるのだ。

 国が無くなるという感覚は、日本に暮らしていると正直、感じない。あまり国というものを考えずに済んでいることも一因だろう。日本列島は海に囲まれているので国境が身のまわりにあるでもないし、日本人と日本語に囲まれて日々が流れていく。テレビをつければ圧政を引く隣国や、膨張する軍事大国のおどろおどろしい番組を見ることができるけれど、スイッチを切ればまた日常がスタートする。国というものを意識しなくても暮らしていける、これは一種の恵まれた環境なのだろう。

 しかし、ローマ帝国からソビエト連邦ユーゴスラビア、無数の国が崩壊し解体し消滅してきた。長い間国が壊れず、この先もなんとなく国が続いていくと信じているわれわれ日本人は、世界からみたら少数派なのかも知れない。

3)今そこにある危機

 日本が消滅するというのはにわかには想像しがたい。テロの脅威はあるものの、国内では危機感は欧米ほどではない。大きな戦争が起こるとも思えない。しかし、外国から侵略されたりする以外の消滅の仕方もある。自壊・自滅である。

 自滅のパターンの、一番の要因は少子化だ。

 平成20年度の少子化白書によると、2005年は2004年に比べて日本の人口が2万人程度減ったという。1899年の統計開始以来、人口の自然減ははじめてのことだ。

 国家の最低限の条件とはなにか。国家の最低限の条件とは、「going concern、存在し続けること」ではないだろうか。一人の人間には寿命があり、たかだか80年ほどこの世に存在して、そして舞台を去る。人間は、自らが死すべき存在であるが故に、永遠に続くものにどうしようもないあこがれを持つ。祖先から自分、そして子孫へと続く命のリレーを想像し救われる。永遠なるもの、神への帰依を教える宗教に所属することで心の平安を得る。会社の社長は自分の会社が繁栄し続けることを願うだろうし、古来より子孫繁栄は人類共通の望みである。

 少子化というのは、そうした繁栄から遠ざかる道である。しかしその少子化傾向について、危機感を本当の意味で感じている者は少ないのではないか。様々な会議は行われているが、有効な手立てがとられていない。少子化は国の構成員が減るということで、これは放置していい問題ではない。

 少子化は、若い親たちが子供たちを生める環境にないということだ。働きすぎ/働かせすぎによって会社員が仕事に追われている、教育にお金がかかる、住居の問題などという側面もある。

 またそれ以外に、貧困の問題がある。

 現在、日本の労働人口のうち3分の1は非正規雇用だ。しかし今回の金融危機により、大量の非正規雇用派遣労働者が路頭に迷うことになった。これに対し、年末年始に日比谷公園年越し派遣村が設置された。年越し派遣村は、金融危機で派遣先から突然契約を切られ、寮などから退去を迫られた元・派遣社員などの支援を行っているところである。中心メンバーの湯浅誠氏(自立支援センター「もやい」代表)はこんなことを言う。

 いわく、経済的に困窮する若者には、「意欲の貧困」が起こる。経済的に自立できず、親と同居しながら30歳を超え、「恥ずかしい、生きていけない」と自分を肯定できない。

 フルタイムで働いても自分で生きていくだけで精いっぱいで、子供を持つなんて到底不可能な状況がある。これでは少子化に拍車がかかるばかりだ。

 経済的貧困が意欲の貧困を産み、それによってますます経済的に困窮していく。国の意欲は国民の意欲の総和だとすれば、個々の国民の意欲が低下し、「貧困」であることは国の意欲の低下、国の「貧困」につながる。個人の中で貧困が連鎖し、国と国民の間でも連鎖していく。

 少子化、貧困。こうした問題を放置しておけば、我が国はこのまま衰微しその果てに自滅してしまうかも知れない。

4)国が生き残るために

 こうしたたくさんの課題、少子化や貧困を解決し、国家が存在するために、言葉を変えれば生き残るためには何が必要だろうか。

 水、食糧、資源...。言い出せばきりがないが、資源がなくても、食糧がなくても国は生きていける。水を輸入し、食糧を輸入し、どうにかこうにかやっている国々はあるのだ。

 しかし、生き残る、生存し続けるために不可欠なものが2つある。意志と知恵だ。「なにがあっても生存し続ける」という、燃えるような熱い意志と、地球上のすべてを敵にまわしてもしたたかに、戦略的に立ち回る知恵。その二つを欠いた国は、この先永劫に生き続けられるとは思えない。生存する意志のない生物を許容するほど自然界は優しくない。国が一つの生物ならば、同じことが言えるだろう。自然界において、生存する意志がない生物は、退場を迫られるだけだ。

5)意志、意欲

 その意味で、私は我が国の現状に危機感を覚える。存続し続ける意志、それはいったいいずこにあるのか。口を開けばだれもが未来への不安を訴える。一国の総理が他人事のように国の状況を語る。だがしかし、その不安を乗り越え、困難を自らの力で打破するのだという意志を示す者はとても少ないのではないだろうか。いつか誰かがどうにかしてくれる、と国民の誰もが思っている。自分が何かしなくても、誰かがどうにかしてくれるはずだ、してくれなければならない、と皆が思っている。うんざりするような事件をテレビは今日もがなり立て、それを見て暗い未来の予測合戦に明け暮れる。自ら動こうとしない人々が多いように思われる。

 「未来を『予測』する最良の方法は、それを発明することだ」とは、パーソナル・コンピュータの提唱者の一人、アラン・ケイの言葉である。

 誰が未来を発明するのか。それは政府であり、政治家であり、そしてなによりもこの国で暗い顔をして今日をやりすごしている国民自身だ。政府に、政治家に、そして国民自身に、未来を発明する意志や意欲はあるのだろうか。

 生き抜く意志は熱く、そのための知恵はクールでなくてはならない。だが日本において、なぜか意志も知恵も生ぬるい。先述の、日本が置かれた恵まれた環境が、ぬるま湯状態を産んでいるのだろうか。「だれかがどうにか」してくれる、と他人まかせで済まそうとする依存の社会文化も一役買っているのだろう。だがしかし、すでにぬるま湯は冷めてしまった。グローバル化により否応なく大競争時代にたたきこまれたし、少子化や貧困による意欲低下により自らの体温も内側から下がってきている。今こそぬるま湯から出て、自らのうちより光と熱を発さなければならない。

6)知恵

 熱い意志と冷静な知恵は互いに切っても切れない関係にある。意志のないところに知恵は生まれず、知恵あるところに道は開ける。そして知恵は意志が熱くなりすぎたときには暴走をコントロールする。意志が馬で知恵が騎手ならば、馬がどこまでも猛々しく、騎手があくまでも冷静であれば、馬と騎手はどんなに遠いところだって行けるだろう。

 仮に熱い意志があったとしても、熱い意志だけでは暴走してしまうことがある。意志が暴走し、冷静な知恵がコントロールを効かせられないことについての警鐘は80年前にもならされている。

 今から80年前の1929年、ジャーナリストで評論家の清沢洌は、日中関係についての評論の中でこう述べた。「愛国心算盤珠(そろばんだま)にのるものにせよ」。

 1891年に長野県に生まれた清沢は、1906年にアメリカに移民した。アメリカでは在米日系紙の記者をしていた。1918年に帰国したが、『中外商業新報』(後に日本経済新聞)に入社、その後『東京朝日新聞』に移った。同紙退職後もフリーランサーとして評論を行った。
愛国心の悲劇」と題されたその評論の中で、山東出兵にかかる費用を3780万円、加えて出兵により損なわれる日中間貿易の損を2億円程度、それに対し得られる権益を350万円以下と見積もり、経済的にみて山東出兵は割りにあわないとした。

 山東出兵の道義的・歴史的意義についての判断は別として、熱い意志は「算盤珠に乗る」ものでなくてはならない。

 「算盤珠に乗る」という言葉は、政治とはすなわち国家経営である、という松下幸之助の言葉とあい通じる。政治は理想や愛国心といったいさましい話題を語りたがる。だがそれだけでは国家が肥大化するばかりで、暴走の結果国民を不幸にしてしまいかねない。「算盤珠に乗るのか」、国家経営としてみたときにその愛国心は国民を幸せにするのかと問うのが冷静な知恵というものだ。

 政治も経済も混迷し、日本の未来が見えない今こそ、熱い意志を奮い立たせ、冷静な知恵をたくわえよう。なにもせず、誰かがどうにかしてくれるとたかをくくって流されていたら、その先は衰退しかない。熱い意志と冷静な知恵で、消滅でもなく、『平成三十年』でもなく、『21世紀の日本』を目指したいものである。

参考文献

国民生活に関する世論調査(平成20年6月調査) 内閣府大臣官房政府広報室
村上龍希望の国エクソダス』2000年 文藝春秋
堺屋太一『平成三十年』2004年 朝日新聞社
松下幸之助『私の夢・日本の夢 21世紀の日本』1976年 PHP研究所
平成20年版 少子化白書
J-CASTニュース2007年6月30日湯浅誠氏インタビュー
湯浅誠『反貧困―「すべり台社会」からの脱出』2008年 岩波書店
山本義彦編『清沢洌評論集』2002年 岩波書店
北岡伸一清沢洌 外交評論の運命』1987

松下政経塾レポート2009年を再掲 元サイトはこちら↓)

www.mskj.or.jp