美意識とデジタルデトックス

「大事なのはね、美意識を持つこと」

その女性は、医学生のぼくより10数歳は年上だった。

「美意識っていうのは簡単で、なにが自分にとってNGで、なにがOKかってこと」

そういってその人はワイングラスに口をつけた。

 

ニューヨークのメトロポリタン美術館やロンドンのテートギャラリーには、ここ数年、知的エリートたちが数多く通ってきているという。その目的はひとつ、「美意識」を鍛えるため。

グローバル人材やスーパーエリートたちは今、こぞって美意識を鍛えにきている。その背景や理由とは、を説いたのが山口周著『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか 経営における「アート」と「サイエンス」』(光文社 2017年)である。

この本の著者山口氏は、大学院で美学美術史を専攻し、BCGなどを経て今は組織開発・人材育成に携わっているという。徹底的に多面的に、「美意識」がエリートに求められているかを論じた良書である。

 

最近の経営者が片腕として重視するのはMBA出身者ではなくデザイナーやアーティスト感覚を持った人材だ、という話を最初に読んだのは1年ほど前のBooks&Appsでだったように思う(が元記事はうまく見つけられなかったので自信がない ①)。
「経営 デザイン」で検索すると、2014年ころからそうした記事が増えているようだ。

『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』によれば、今、エリートに美意識が必要とされる理由は以下のようなものだという。

すなわち、

・論理思考が普及し尽くして、論理思考だけでは他者と差別化できなくなった。「正解のコモディティ化」問題(前掲書 kindle 484/2716あたり)。

・ものごとが流動的で、原因が結果になり結果が次の問題をどんどん発生させていくVUCAな世界では分析的・論理的な情報処理方法ではついていけない。VUCAは不安定・不確実・複雑・あいまいの英語の頭文字(kindle版 134/2716や第1章)

・大局的にみると、世界の消費者の物質的欲求はほぼ満たされており、残っているのは自己実現欲求自己実現欲求を満たすために、人々が求めるのは物語をもったブランド。そのためには美意識がなければならない(第2章)

・システムの変化が早い世界では、法律が現状においつかない。「法に触れなければなにをしてもよい」という考え方の背景には「法令不遡及の法則」があるが、実際にはその時点で法令に触れなくても過去にさかのぼって罰せられる事例は複数ある(グレーゾーン金利など)(第3章)。法律という外的要因で行動を規定するのではなく、「真・善・美」という内的規範で行動することによって、あとからペナルティを受けるリスクが激減する。エリートが美意識を鍛えるのは「犯罪を犯さないため」(1500/2716)

この本から、「論理思考の時代は終わった。これからは美の時代」と結論を出すのは短絡的だ。論理思考が終わったのではなく、論理思考を身に着けているのは当然の時代になったので、さらに差別化するためにも美意識を持つことが必要というのがこの本の主張だ。新しい時代を開く者は、前の時代のスキルを一通り身に着けておくことが要求される。剣が不要の時代を開いた坂本竜馬は、剣の達人だった(S先生の教え)。

 

競争相手誰しもが論理的・合理的な情報処理をできるようになった、という観点からは、AIの台頭も見逃せない。24時間365日超高速で合理的情報処理ができるAIと同じ土俵で戦っても勝ち目はない。

戦略とは戦いを略すことだ。戦いをしないでも勝つようにしておくのが最高の戦略である。
合理的論理的思考は身に着けつつ、そこでは戦わず、美意識という今のところはまだ人間が優位な点で戦うのがAI時代の最高の生存戦略となる。

 

ではどうしたら美意識を鍛えられるか。

前掲書著者の山口氏が勧めているものの一つがVTS(=Visual Thinking Strategy)だ。

これは美術作品を徹底的に「見て、感じて、言葉にする」トレーニングである(2310/2716)。

徹底的に「見て、感じて、言葉にする」ことでパターン認識から自由になり、「豊かな気づき」が得られるようになるという(2340/2716)。

『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』ではあまり触れられていないが(②)、美意識を鍛えるためには身体性も大事ではなかろうか。

『「である」から「べき」は出てこない』というヒュームのカミソリの格言のごとく、論理思考だけでは決して「真・善・美」という内的規範は生み出せない。

「真・善・美」というのは死すべき定めの人間の弱さ儚さ愛おしさから出てくるもので、そこには身体的感覚が深くかかわっている。

 

食の美に関わる仕事、ソムリエの田崎真也氏は五感、中でも嗅覚を豊かにすることを勧めている(田崎真也『言葉にして伝える技術』祥伝社新書 2010年 P140-149)。

言語に出来るものはデータ化できる。データ化できるものはAIで処理できる。

視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚の五感の中で最も言語化できていないのは嗅覚で、その嗅覚を鍛えることの重要性をソムリエが説いているのは興味深い。

 

AI時代に我々がどう生きるべきか不安になったらネットから離れるべき、という言うのはリバネス社の丸幸弘氏だ。

<不安だったら、「週に1回、ネットにつながらない遊び」をしたらいい。その日にはスマホを触らない。それによって自分の感性が磨かれてくる。ネットの中にあるものは、全部AIに置き換わると思ったらいい。ネットに出ていない真実、目の前の子どもと目と目を合わせている時間だけが人の感性を豊かにします。>(藤野貴教『2020年人工知能時代 僕たちの幸せな働き方』かんき出版 2017年 P.185)

 

AIと仕事を奪いあう時代、必要なのは美意識だ。その美意識を鍛えるためには身体性を取り戻すのが不可欠だ。時にはネットから離れること、いわゆるデジタルデトックスという奴が今こそ必要な時なのかもしれない。
デジタルデトックスで身体性や感性、美意識が磨かれるなら、デジタルデトックス、今日からぜひやってみたいと思う。

スマホタブレットに触れずに生きていけるか少々不安だが、鉄の意志を持ってすれば案外すんなりいくのではないか。デジタルデトックスを経て生まれ変わった自分に出会うのが楽しみである。

デジタルデトックスの様子は、リアルタイムで毎時間ネットにアップします。お楽しみに!(嘘)

注① おそらくこの記事。読み返してみるとちょっとニュアンスが違いました。

時流にあう人、あわない人。「有能」の定義がほんの15年で大きく変わる。 | Books&Apps

 注② 身体性について、同書(kindle 1669/2716など)および山口周氏の別の著作『外資系コンサルの知的生産術』(光文社 2015年。kindle版 1228/3323など)ではアントニオ・R・ダマシオのソマティック・マーカー仮説について触れられている。

↓大事なのは身体性。大事なカラダを守るために。

3分診療時代の長生きできる受診のコツ45

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