棚にあげるか二階に行くか

もの言うことは、恥ずかしい。

どこかでそういう感覚が残っている人の言うことでないと、信用できない。そんな気がする。

 

週刊新潮9月21日号の五木寛之氏のエッセイの題名はこうだ。

<自分のことは棚にあげて>

そのなかで氏は、こう書いておられる。

<日々の暮らしぶりとか、健康とか、老後の生き方とか、いろんなことについてこれまで勝手なことをあれこれ書いてきた。正直言って忸怩たる思いがある。
(略)

「偉そうなことを言って、自分はどうなんだ」

という内面の声は常に心の中にひびいている。>(上掲書p.58)

 

人間は、他人のことをあれこれ言うのが大好きだ。誰かが不倫してケシカランとか国を侮辱したとかああだこうだと論評しては溜飲を下げる。

そこに一抹の真実はあるのだろうが、いや一抹の真実があるからこそ、他人を糾弾するときには気を付けなければならない。自らの正義と正論に酔って、暴走しちゃうんですね。
怪物を叩く者は、自分自身も怪物になることのないように気を付けなければいけない。世間という深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいているのだってとこでしょうか。
非のうちどころのない完璧な人間でない限り、喜色満面で誰かを叩いているうちに「お前が言うな」という矢は必ず飛んでくる。

 

そしてまた、高級な理論や難しい言葉を振り回すのが大好きな人もいる。高尚な概念を一分の隙もなくパーフェクトに組み立てて、誰も反論のできないような正論を滔々とまくしたてる。

そういう人がみんなみんなご立派な私生活を送っているかというと、そうでもなかったり。


もちろん、みながみな「オレも他人のこと言えないし」とか「オレが偉そうに言うのもな」とかと口をつぐんでしまうのも考えものだ。
おかしな人やおかしなことへの批判が無ければなあなあの馴れ合いで社会はダメになるし、たとえきれいごとであったとしても正論や新しいアイディアを誰かが言い出すから世の中進歩する。

でもね、そこにちょっとだけためらいとか恥じらいとか戸惑いとかあるいは立派な自分自身も完璧じゃないけどでも言わずにはいられないみたいな諦観とか、そんなものが欲しい。ちょっとでいいから。

五木氏は言う。
<世の中に向けて何かを述べるということは、「自分のことは棚にあげて」言うしかないのである。>(p.59)。
もの言うことの気恥ずかしさと、それでもなお何かを述べたい述べなければという感情の間を揺れ動き続けている人、こういう人は信用できるよなあ。

逆に信用できないのはどういう人か。自分を棚にあげるんじゃなくて、自分ごと二階に上がって考えもの言う人だ。

 

二階にあがるというのは、瀬古公爾氏が著書『ぶざまな人生』(洋泉社 2002年)で使って表現で、普通の日常生活を一階、知的行為・インテリ的言動を二階に例えている。

瀬古氏は同書の中で、自らを何も考えずに一階に安住するでもなく、市井を忘れて知的遊戯に没頭する二階の住人にもならず、日常生活に足をつけながらも中二階でものを考え続けると宣言している(p.171-175)。
<この中二階は「ぶざま」ではあるが、わたしが二階をきらうのは、ふだんは二階(高級な観念)に上がりっぱなしで、一階(俗情)を見下ろしている者が、夜陰にまぎれてちゃっかりと一階に降りてきて、一階の住人以上の俗情を手に入れていたり、手に入れようと右往左往している姿がこのうえなく「ぶざま」だからである。ふつうに考えれば当り前のことだが、なんだ、ふだんは偉そうなことを言っているが、こいつもやっぱり金と女(男)と地位とモノが欲しいんじゃねえか、コノ二階ヤローが、と思ってしまうのである。>(p.173,174)

現実生活に立脚しつつ、時に知的な背伸びをしてものを考えるという中二階の思想というのは真似してみたいところである。

 

ネット普及期の幕開けには、匿名性のもとで誰もが社会的属性を離れて自由闊達に議論を戦わせることができるようになるのかと胸を躍らせたものだ。
肩書や性別や年齢などなどと発言・発想・アイディアが切り離されて流通し、純粋に発言・発想・アイディアの面白さや妥当性だけで勝負できる時代になったと期待した。

ところが時は流れ、過去の言動がデジタルデータで永久保存されいつでも検索できるようになると、「前と言っていることが違う」「発言が場当たり的だ」と批判されるようになった。

あるいは誰かがその気になれば発言者のプロフィールをサルベージして、「こいつはカッコいいこと言っているけど実生活ではこんなヤツです」と吊し上げることだってできる。
問題発言をネットですれば、あっという間に所属組織に連絡が行き、その結果慎重な人ほどきれいごとしか言えなくなった。
ネット以前よりも、発言は社会的属性や過去の言動に縛られるようになり、昔よりももっと「もの言えば唇寒し」という風潮になってしまったかもしれない。

 

誰もが気軽に意見を発信できるようになったこの時代、どういうスタイルに収束していくのかわからない。だがもっとわからないのはこの文章の収束のさせかたで、仕方がないからかわいいネコの画像でも貼っておしまいにしておく。

これからの言論は、いったいどこに行くのだろうか。

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