完結医療。終末医療ではなく。

終末期医療について考えていたらこんな言葉を掘り起こした。

 

〈老いて、死んでいく。医者には何の手だてもありません。医学の遅れとか医療技術の未発達とは、これはまったく別の問題です。

言い換えれば、生き抜いたということじゃないか。治す、治るの問題と違う。たとえオシメを当てた寝たきりでも、ちっとも異常ではなく、そこにあるのは七十年なり八十年なりの人生を、懸命に生き切った人のこのうえなく尊い姿ではないか。たぶんそうなんだ、そうに違いないと考えるようになりました。

治そうなんて、もう思いません。

では、白衣を着て何をしているかというと、治しでも癒しでもない。“送り”です。西陣の人たちとともに生きて、たどり着いたところが「送りの医療」でした。

世間で言われる終末医療とは違います。終末医療、何とも冷たい言い方ですな。そこには人間を臓器の集まりとして見る医学の、メスのように冷たい響きがあるような気がしてなりません。

終末医療ではない。完結医療であるべきだ、本気でそう思います。 老いや死は、人生の終末なんかじゃないんです。

その人の人生を仕上げる、完結。

長いドラマの最期に、感動と余韻を残してスルスルと引かれる幕ー。

「イヨッ!成駒屋」

じゃなく、

「イヨッ!おばあさん。みごとに生き切ったね」

(早川一光『お迎え来た…ほな行こか』佼成出版社 平成10年。p.6-7)

 

早川一光先生は在宅医療の先駆けのお一人で、介護保険制度とかができるはるか前から西陣の地で一軒一軒西陣織の職人さんの家を訪ね、人々の生老病死に伴走してきた。

「センセ、最近おしっこが漏れますのや」と相談されれば、「そうか。ワシもや」と答え、ともに生き、ともに往く者としての医療者の背中を見せてくれた。

長らくKBSで番組も持っていたから、京都の地では「イッコーさん」「イッコーセンセ」の名で親しまれてきた(本当だってば)。

 

「治そうと思わない医療」とか「全人的医療」とかは未熟者が表面だけマネすると大怪我大やけどをする。軽々にマネしないほうがよいけれど、「終末医療ではなく完結医療」というのはよい言葉だと思う。

 

そしてまた、ともに生きともに往く者として「生き切る」ということも考えてみたい。

CARPE DIEM.今日という日の花を摘め。

人生を生き切るためには、まずは1日を生き切ることだ。

1日を生き切り、それをただひたすらに積み重ねてゆく。その先にしか、生き切る人生は無い。

そう考えると、いけねえネットとかやってる場合じゃない。

それじゃまた。 皆様、良い1日を。

 

 

 

リアリティショウ。

昔見たリアリティショー。誰か動画持ってませんか?
英ヴァージングループの後継者を探すという企画で、(多分だけど)世界中から我こそは、っていう若者を集めるんですよね。
それで総帥リチャード・ブランソンにみんなで面会するぞって言って、空港に迎えに来たリムジンに若者がワラワラと乗り込むわけ。
で、みんな高揚してるし生意気盛りだから、運転手とかにも横柄な口を聞くわけ。
「遅いぞ!もっと飛ばせ!俺たちゃヴァージングループの後継者候補だぞ!ゲラゲラゲラ」みたいに。
で、会場に着いて若者がワラワラと降りてくると、運転手も降りてくる。
「なんだこのおっさん?」みたいに若者たちが訝しがっていると、おもむろに運転手が顔のゴムマスクを取る。
驚く若者。
運転手はリチャード・ブランソン本人の変装。
彼が言うんすよ。
「運転手に敬意を払えない人間を後継者にしたいとは思わない。帰りたまえ」
生意気な若者は膝から崩れ落ちて、ほんとに泣き出してた。
富と名声のチャンスに、あと数mmまで手が届いてたのにね。
あの番組を見て以来、ぼくは全ての人がリチャード・ブランソンの変装だと思って生きてきた。

手土産は老舗で。

「雑誌の取材で地方に行くときにはね、手土産は東京の老舗のものがいい。
“お宝発見”みたいな企画で、地方の名家とか名士さんとかのところに行って、蔵の奥に眠ってる“お宝”を撮影させてもらったりするんだよ。うまいこと機嫌取って写真撮らせてもらわなきゃなんない。
そういう地方の名家とかってさ、女主人とか奥さんとかは若い時に東京の大学とかに出してもらって、卒業したら呼び戻されたり、名家に嫁いだりしてるわけ。
で、そういう女主人とかお嫁さんとかに『これよろしかったら…』って東京の老舗の手土産を渡すと、『懐かしい!東京にいる時によく食べたワ』なんていって喜んでくれて、取材許可が出るわけ」
 今はなき週刊HのカメラマンのTさんが昔教えてくれた。
インターネット前夜のことで、それこそAmazonも楽天もない時代のことだから、今では手土産事情もだいぶ変わっていることだろう。
だがなぜだかこの話はずっと覚えている。
今、人生の後半戦にこの話を思い出すと味わいが格段に深まっている。
あの頃は手土産を渡すTさんの側に近い年代だったが、今では地方の名家の女主人や「お嫁さん」側の年代に近い。
今では通販やデパートで、地方にいても東京の老舗のお菓子も手に入るだろう。
だがやはり、この話で手土産にするのは東京の老舗がふさわしい。最新流行のお店の品では下手すれば逆効果なのだ。
これは想像だし人によるけれど、大学時代だけ東京で遊学させてもらって実家に呼び戻されたりした女主人の中には、複雑な思いを抱えている人もいるだろう。
「ほんとは私ももっと東京にいたかったのに、実家の都合で呼び戻された!」とか。
そういう気持ちは揺れ動くので、「しゃーない、まあいいか」みたいな境地の人もいるだろう。
しかしもし女主人が「もっと東京にいたかったのに!」みたいな気持ちのフェイズだったら、流行りものはヤバい。
「チャラチャラしたマスコミの若いヤツが、東京の流行りものを見せつけてきた!」みたいに変な地雷を踏んでしまうかもしれないのだ。
そんな見えないリスクを負うよりは、東京の老舗のお菓子のほうがリスクが少ない。
冒頭のように女主人のノスタルジーを呼び起こせるかもしれないし、相手の心に刺さらなくても「何がお好きかわからなかったので…」と言っとけば済む。
だから老舗は強い。
昨夜ネットをウロウロしてたら羊羹の話にぶち当たったのでそんな話を書いてみた。

羊羹の話はこちら↓

togetter.com

 

究極の有限資源は、時間と意志力。

時間と意志力を死守せよ。なぜならそれらは究極の有限資源だから。

 

現代人が一歩外に出れば、無数の人やモノやコトがあなたの時間と意志力を奪いにくる。家庭を持つ者であれば、家の中でも同様だ。古人曰く、〈三十歳を過ぎれば、君の生活は妻子のものになる。〉(キングレイ・ウォード『ビジネスマンの父より息子への30通の手紙』新潮文庫 平成六年 p.34)

 

もしあなたがやりたいまたはやるべきと思えば、喜んで自分自身の時間と意志力を人・モノ・コトに差し出すがいい。

他者からみてそれが無価値であっても構わない。自分が選んだ人・モノ・コトに、存分に時間と意志力を捧げよ。

だが、究極の有限資源である時間と意志力を捧げたくない人・モノ・コトであれば、回避せよ。それが無理なら最小化を試みよ。

一番いけないのは無自覚なまま自分の時間と意志力を垂れ流し一生を終えることである。

 

意に反して自分の時間と意志力を奪う人・モノ・コトを回避するにはどうするか。もっとも身近な例で言えば、気が進まない飲み会。答えは、その場で断る。

我が人生の師の一人、Fさんは見事である。

Fさんは、気が進まない飲み会や会合に誘われたその時点で即座に断るのである。断り方も完成されていて、必ず「私はちょっと…」とおっしゃる。

 

小心者のぼくなどは気が進まない飲み会に誘われたときには、「断ったら悪いかな」などと思い参加の意思表示を保留にしてしまいがちだ。その場合、日を追うごとに気が重くなるし、ますます断りづらくなる。その間、心を煩わして無駄に意志力を浪費してしまう。

それに比べFさんの場合、断る瞬間の意志力は要るものの、断ったあとはずっと心は晴れやかである。

 

立場を替えて、自分が誘う側になったことを想像してみる。一番困るのは飲み会当日まで来るか来ないかわからない人だ。誘った瞬間に「私はちょっと…」と断られた場合には、あっさりと「また誘えばいいか」とスルーされるものなのだ。「私はちょっと…」の「ちょっと」とは何だろう、と思うかもしれないが。

 

究極の有限資源、時間と意志力を死守せよ。

一番大事なものに時間と意志力を思う存分、ふんだんに投入し、それ以外は極力時間と意志力をsaveせよ。

一番大事なものが他者にとって無価値であっても構わない。

 

一番大事なもの以外は大事ではない。

繰り返す。

一番大事なもの以外は、大事ではない。 ちょっと言い過ぎた。ごめんね。

(Facebook 2019年5月15日を加筆修正)

 

 

仕事で肝要なのは「巻き込む」力。

「まず調査して、その地域の特色となる食材を見つけます。そして、地域のいろいろなお店にその食材を活かした料理を考案してもらう。

それでここからが重要なんだけど、必ず試食会をやるんですね。

地域のおばさまやお母さんたちなんかを招いてそれぞれの料理の試食会をやる。

 

で、ここがポイントで、『ダメ出しして下さい』とお願いするんです。

そうすると『盛り付けがダメ』とか『味付けがダメ』とかみんなダメ出しをしてくれる。

それでそのダメ出しを元にして、もう一回シェフや板前さん、職人さんに料理を練り直してもらう。

 

そうやって地域の新・名物料理を作り上げて、お披露目する。

そうするとね、ダメ出しをしてくれたおばさまお母さんがたがどんどん口コミで宣伝してくれるんです。『私たちが作り上げた名物料理が出来たから食べに行こう!』って」

 

食で地域おこしをしている料理人兼プロデューサーのかたから聞いた話だ。

顧客である地域の人たちを企画段階から意識的、積極的に巻き込んでゆくことで、大きな流れを生み出してゆくその仕事術に、ぼくはとても魅了された。

 

自分ひとりでできることはたかがしれている。

うまい具合にまわりを「巻き込む」ことこそ肝要だが、それがなかなか難しい。

 

〈「いいか。テレビ局の制作ってのは、クレームをつけるのが仕事なんだ。今のテレビ番組ってのは八十%が制作プロダクションへの外注だ。そうなってくると、局の担当というのは仕事がないわけで、何もすることがない。毎日非常に困るわけだ。手持ちぶさたで。で、何をやるかというと、制作プロダクションが仕上げてきた作品にいちゃもんをつける。それしかないんだ、することが」

「なるほどね」

「そういうときに制作プロのディレクターはどう対処すればいいか。わかるか、沢井ディレクター」

「わかりません」

「巻き込むんだ、相手を」〉

(中島らも『水に似た感情』集英社文庫2000年 p.174-175)

 

 

「つかんではなしてギュッと締める」の話。

『インベスターZ』という漫画の1シーン、「つまらん映画は冒頭で出て損切り」の話がTwitterで話題だ。

創作論の専門家でもないし成功の方程式は無数にあるのが前提。

 

映画とネット動画、あるいは講演会と文章の違いは何か。強制性だ。

映画や講演会では、基本的に観客や聴衆は見続ける聞き続けることを強制される(もちろん自分が望んでだけど)。

一方、 ネット動画や文章は、基本的にはいつ見ることや読むことをやめても構わない。構造的な話だ。

 

2時間なら2時間、見ること聞くことが確約されている映画や講演会では、はじめのうちは一見低調でも、後半に向けてぐわーっと盛り上がっていくような構成が許される。

あるいはわざと前半は低調にしておいて、そのリズムに観客や聴衆が慣れたところで一気にギアを上げていくと印象が強くなる。

 

一方で、テレビや動画や文章では、見る側や読み手にいつ立ち去られてもおかしくない。このため観客聴衆を拘束できる映画や講演会とは構成の仕方を変えなければならない。 あるでしょ、冒頭からだらだらと何を言いたいのかわからなく読むのやめちゃう文章とか。

 

ではどうするかといえば、「つかんではなしてギュッと締める」だ、と中島らも氏が『水に似た感情』で書いている。

冒頭に、見る者読む者の心をつかむシーンを持ってくる。「なんだろう、何を読ませてもらえるんだろう、何を見させてもらえるんだろう」と思わせるわけだ。 らもさんはインディジョーンズの映画を例に挙げている。

 

ブログや Twitterとかで一番マネしやすいのは誰かの会話で文章を始める方法。

人間は、誰かが話していると本能的に耳を澄ますのだ。会話で文章を始めるのは使い勝手がよい手法である。

あとは偉人の格言、警句を冒頭にポンと置いておく。なんかエラい人の話っぽいから読まなきゃと思わせるわけだ。

またこの文章でもそうだけれど、冒頭に「言い切り型」の一文を持ってくると、「そうだそうだ」と思ってくれる読者と「え、言い切ってるけどホントにそうなの?なんとかアラを探してやる」という読者の両方をつかむことが出来る。

 

「つかんではなしてギュッと締める」の「はなす」は「話す」であり「放す」であり「離す」でもある。

うまい具合に読み手観客の心をつかめれば、しばらくの間はお付き合いいただける。 その間に、自論や自説、伝えたいことを展開する。

ここの部分は好き好きだが、ある程度ゆるく話すほうが効果的だ。

ガチガチに読み手の解釈をしばるような書き方や語り口をしてしまうと、息苦しいし、かえって話が広がらない。

語り継がれる名作などは、「ここの部分はファンの間でも解釈が分かれる」とか「このセリフをどう捉えるかは今も論争になる」みたいに、ある程度読み手観客の心を「離し」て「放し」つつ「話し」ているわけだ。そのほうが広がりが得られる。

ただし学術論文や論説文では、解釈の余地を残さず一語や一文は一定義であることが望ましい。

 

最後の「ギュッと締める」はオチ、クライマックスだ。 このオチに意外性を持たせるためには(ためにも)、中盤の「はなす」は「離す」であるのが良い。

読み手観客の心を「離し」て「放し」て、場合によっては誤誘導をしてオチの意外性につなげるのだ。

 

はじめの話に戻すと、「つまらない映画は5分で出ろ」みたいな話はメディア特性を無視した暴論である。

しかしながらメタ視点で見れば、『インベスターZ』がどういうことに心惹かれる読者層をターゲットにしたメディアかまで考えるとこれまた興味深いから、とにかく『インベスターZ』は読んでみてもよいと思う。

 

 

積み上げてゆくこと。

多くの政治家は、一番最初はたった1人で駅前や街角に立ち、誰も聞いていなくても演説を始める。
作家や評論家だって、一冊一冊、自分で自分の本を売る“手売り”から始める人もいる。
綾小路きみまろだって、自分の漫談を吹き込んだテープを持って高速道路のパーキングエリアに行き、観光バスのドライバーに「これ面白いからバスの中で流してみてください!」って頭を下げて一本一本テープを配ってファンを積み上げた。
そういう泥くさいことができる人々と、それを見てただ嘲笑う人がいる。
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「駅頭、辻立ちとかって、“見てるようで見てない、見てないようで見てる”んだ。
毎朝駅に立って挨拶と演説をしてると、出勤に急ぐ人たちは誰も立ち止まったりせずにちらりと横目で見て通り過ぎる。誰も聞いてない。
ここで心を折られずに毎日続けていると、ある時言われるんだな。『毎日駅で立ってますよね。頑張ってください!』。
こうやって1人また1人と、支援者を増やしていくんだ。それしかない」
多くの政治家はみなそんなことを言う。
そういうものなのだろう。