白い巨塔2024
長く読みつがれる名作というのは、しばしば多面的なのだろう。
名作は、読む人の立場や人生のステージによってそれぞれ違う顔を見せてくれる。
山崎豊子『白い巨塔』を学生の時に読んだ際には、単純に財前先生=悪い医者、里見先生=素晴らしい医者と読んだ。
時は流れ自分が働くようになると、里見先生が上司や同僚だったらしんどいだろうなと思うようになった。
一緒に外来診療やっていても隣の里見先生のブースだけは遅々として進まない。
里見先生が数さばかないものだから、新規患者はどんどん自分の外来に回ってくる。
外来の看護師さんは、子供の保育園のお迎えの時間がせまってきてイライラし始める。
医療事務の人たちは「今日も残業か…」とため息をつく。
病院の経営陣は、「里見先生の外来の日は、残業代がたくさん発生するんだよね」と頭を抱える。
「里見先生の患者さんが、待ち時間が長いので薬だけ出してって言ってます」と回ってきたカルテを開くとやけに丁寧な里見先生の字で長々と記載があり神経を逆撫でする。
大学院生で里見先生に論文の再投稿の相談をしにいっても「rejectされましたか。諦めずに、もう一個実験してみましょう。それからこの英文の代名詞はこれでいいのかな?あとでぼくがチェックしておきます」と言われて、どうしても「ランク落として別の雑誌に出しちゃうでダメですか?」と言えない。
そこへ行くと財前先生はやはりボス猿といった風格で、「うちの親父、むかつくけどやっぱオペうまいんだよな」「なんか政治家とかも知り合いらしいじゃん?うちの大学に予算引っ張ってきてくれそうじゃん?」と人がついていく。
論文の相談に行っても、「リジェクトくらった?講師の何なに先生に見てもらえ。何なに先生、よろしく。オレはピッツバーグのプロフきてるから会食行ってくる。ピッツバーグで留学生受け入れるって言ってるから、お前、行ってこい」としゃかしゃかものごとが進む。
問題は財前先生の外来診療の代理するときで、カルテを開いても「財前センセ、npとdoしか書いとらんやんけ!この患者さん、いったい何の患者さんなんや…」と途方に暮れることになる。
「財前センセ、なんでムコスタとセルベックスだけ延々と処方してるんや…この患者さんを大学病院で診つづけてる理由はなんなんや…」とかもありそう
なぜ新幹線の車内販売ではトッポとじゃがりこなのか考。
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2024年の珍事。
2024年の都知事選挙では、女性のほぼ全裸のポスターが貼られるという珍事があった。
結局都知事選の全裸ポスターは剥がされることになったようだけど、選挙で元力士の人が立候補して「どすこい!国政に張り手!」とか、とにかく明るい安村氏が「安心してください!」とか小島よしお氏が「今こそオーシャン・パシフィック・ピースを!」とかのスローガンで上半身裸の選挙ポスターを貼ったらどうなるか知りたくないと言ったらウソになる。 警察に「迷惑防止条例に触れます」と怒られて「失礼な!これが我々の正装だ!我々の正装が失礼だというのか!」と逆ギレして警察に「その通りです」って言われるとか。
まあ普通に考えて、芸としてみてるから面白いのであって、自分ちの隣に小島よしお氏が引っ越してきて毎朝「ウェーイ!」とかやってきたら面白いよなあ。
学生スポーツはなぜやるのかという話。
学生のスポーツってなんのためにやるんだろうかと考えたことがある。
スポーツというのはやっている限り必ず負ける。
さだまさし的な言い方をすれば、甲子園だって3000幾つの参加チームの中で一度も負けないですむのはただの一校だけだ。
そのほかのチームは、必ず負けでその夏を終える。
そう考えると、学生のスポーツというのは負けるためにやるということになる。 もちろんわざと負けるということではない。
蒸し暑いグラウンドやコートや体育館での日々の練習に嫌というほどの時間と汗を流し、先輩だのコーチだの監督だのの叱責や罵倒にうんざりするほど耐え、脱水や筋肉痛や捻挫を乗り越えて試合に臨み、ねばってねばってねばって、そして負ける。
だが負けたからといって負けっぱなしとはいかない。
落ち込み悔しがりチクショウとつぶやいて、それでも明日はやって来る。
負けた翌日から、次の試合にむけての練習が始まる。
負けたからといって練習に出ないわけにはいかない。
負けたからといって次の試合を放棄するわけにはいかない。
思う存分落ち込んで気を取り直し、重い体をひきずって練習し、次の試合を目指す。
練習し試合して負け、練習し試合してちょっと勝ってやっぱり負け、さらに練習して試合してもう少し勝ち、それでもやっぱり99%の人は、一番最後は負けて学生スポーツ時代の幕を閉じる。
そうしてみんな社会人になって、それぞれの場所に立つ。
それぞれの場所でそれぞれの「試合」があって、それぞれに勝ったり負けたりだけど、負けてもやっぱり明日は来る。
そんなことを前もって体感するために学生スポーツっていうのはあるのではないか。
負けることを学ぶ、負けても負けても負けても負けても負けても立ち上がる、どんなに悔しくて惨めで情けない想いをしても、それでもやっぱり何度でも立ち上がることを学ぶために、学生スポーツはあったんじゃないかと思うんですよね。
学校健診の話。
「ものごとは静止画で見るな、動画でみよ」 敬愛するH先生の教えだ。
2024年5月末現在のここ数日、タイムラインは学校健診の話題でもちきりだ。
婉曲にいえば男性医師が女子生徒の診察をする際に脱衣させるのはいかがなものか、というのが論点だと思う。
さまざまな立ち位置があり、一部では「それならいっそ学校健診やめてしまえ」みたいな極論もある。
だがちょっと待ってほしい(朝日新聞語法)、本当に学校健診をやめてよいのか。
「学校健診をやめる」ということを静止画で考えてみる。
やめた瞬間、羞恥心から解放されてほっとする女子生徒(女子に限らないが)が出現するだろう。それは認める。
けんたろうさんだって「オレのおかげだ」とご満悦だ。
全国で健診にかり出されていた医師たちも、これで本業に専念できると正直ほっとするだろう。
だがその静止画のポーズボタンを解除して、動画でものごとを見てみる。
学校健診が廃止されて1年2年3年と経つうちに、ぽろぽろといくつかの病気がこじれる子どもたちが出てきてしまうだろう。
一例を挙げれば側弯症。
東京都予防医学協会年報 2016年版第45号によれば、小学校の脊柱側弯症検診の発見率は0.3パーセント前後。
学校での側弯症検診により、1000人の生徒がいれば3人前後が側弯症を発見され、さらなる医療へとつなげられている。
「学校健診廃止」を動画で見ると、そうした子どもたちがよりよき未来からこぼれおちてしまうのが懸念される。
「学校で一律にやらずに、各家庭で病院連れて行けばいいじゃないか」という意見があるのはわかる。
だが、家庭により子どもたちへの接し方に濃淡や温度差があり、社会の多忙化に伴い「子どもを病院に連れていく時間もない」家も少なくないのはネットユーザー諸賢ならご存知のはずである。
学校健診の場で、生徒が羞恥心を感じる場面はできるだけ少ないほうがよい。
そのための手段を講じながら、1人でも多くの子どもたちが避けられる病気を避け、よりよい未来に生きていけるようにロングスパンの動画でものごとを考えてゆくのが我々大人の責務ではないだろうか。
付記
・側弯症発見率 https://www.yobouigaku-tokyo.or.jp/nenpo/pdf/2016/04_04.pdf
・学校健診の動画を巻き戻しすると、学校健診のはじまりは1888年(明治21年)とのこと。
・学校健診の根拠法。
・もちろん今行われている項目や方法が最善最高不変とは限らない。 たとえば昔行われていた座高測定は、行う意義が乏しいとして平成26年に廃止された。