朝のリレーなう。

ジョージアの議員が コーラの蓋を指で弾いて開けたとき



 

メキシコの娘は 朝もやの中でバスを待っている



 

オハイオの父親が ほほえみながらバーベキューの肉を焼くとき



 

トーキョーの漫画家は 米国の軍人がヤキニクをするマンガをアップする




 

 

この地球では
   


 

いつもだれかがTweetをしている




 

 

ぼくらはTweetをリレーするのだ


 

経度から経度へと

そうしていわば交替で地球を守る



 

眠る前のひとときXを開くと



 

どこか遠くで誰かが「いいね!」を押している



 

それはあなたの送ったTweetを



 

誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ

AIと「ウザさの谷」。

AIにも「不気味の谷(uncanny valley)」現象が起こるのかを考えている。
Wikipediaによれば、不気味の谷現象とはロボット工学者の森政弘氏が1970年に提唱した概念で、ロボットの姿形や動きなどが人間に似てくるにつれて好感や親近感は増加するが、ある一点を超えると急速に好感や親近感は嫌悪感に変わるというものだ。
平たく言えば、C-3POやR2-D2があまりにも人間そっくりになってきたらキモいよね、ということだ。

AI自動翻訳でも、この「不気味の谷現象」は起こるのだろうか。
「不気味の谷」、カジュアルにいうと「ウザさの谷(annoying-ness valley」。
AI自動翻訳機能の進歩では、この「ウザさの谷」が起こるのか、そしてどの段階がその「ウザさの谷」なのかを考える。

このXのAIの自動翻訳機能は本当に大したものだ。
だがいまのところ限界がある。
たとえば冒頭の「鼻から牛乳」はある年代の日本人なら全員知っている嘉門達夫のギャグだが、今のところそのギャグをギャグのまま他言語話者に伝えることはできないだろう。

だが技術的には、「鼻から牛乳」を文脈などからギャグだと認識し、たとえばYouTubeからその動画を探してきて参考資料として訳文に解説とともに添付表示することは可能だろう。
そこまでされたらAI自動翻訳機能は「ウザさの谷」に突入するだろうか。

答えはたぶん否、だ。だって便利そうだもの。
他言語話者の書いたギャグや内輪ウケを、訳して解説してくれたら便利で、それはウザくない。
だって、それはまるでロブスターを食べたプリンセスみたいだもの。

ではAI自動翻訳機能の進化には、「ウザさの谷」はないのだろうか。
つらつら考えて、やはり「ウザさの谷」はあることを発見した。

たとえば我々が誰かほかの人のポストを見る時、「このポストはあなたには性的すぎるから見ちゃダメ!」とか「コーラの瓶のフタを指で開けるなんてマネしてケガしたらどうするの!このポストは見ないほうがいいと思うな」とか「Xばっかり見てないで勉強しなさい!」とかAIが言い出したら、それがAIが「ウザさの谷」を超えた時だと思う。

 

 

人生が迷いの連続ならば、大切なのは”良い迷い方”。

ある夜、友人Cが言った。
「どうせ人生は死ぬまで悩んで迷うんだ。だからさ、どうせだったら“良い迷い方”をしたいよな」

“良い迷い方”か。それはいいな。
ぼくは胡椒の効いた、外国のクラフトビールを頼んだ。
バーのカウンターにはウフマヨとポテトフライが並ぶ。
後からトンカツも来るはずだ。

昔読んだ本にこんなことが書いてあった。
フランスでは、ビネガーとワインを一緒に摂ることはない。
なぜなら両方ともブドウから出来ているものだから。彼らには、同じ材料から出来ているものを同時に摂ってはいけない、という感覚がある。
あれはほんとなんだろうか。
じゃあウフマヨはウフとマヨが共存してるけどフランス人的にはあれはokなのだろうか。
そもそもそんなこと言ったら、グラコロバーガーは全部小麦でできてるけども。
それはさておき。

人生は選択の連続だ。
選択肢を前に、人は悩んで迷う。
そして選択をし、選択肢を背後に歩み始めた時も、やはり時々後ろを振り返って「これでよかったのか」と悩んで迷うのだ。
ならばやはり人生は死ぬまで悩んで迷うことになる。たいへんだ。

ではどうしたら“良い迷い方”ができるのだろう?
その答えはたぶんシンプルで、真摯に悩む、選んだらしっかりやる、ダメなら戻る、の3つだろう。
特に、選んだらしっかりやる、というのは大事だ。

〈選べなかったほうの人生を夢見ることはできない。でも、選べなかった人生が私に微笑みかけてくれるとき、いつでもその人生に恥じないようにあることはできるかもしれない。〉(吉本ばなな『下北沢について』幻冬舎文庫 平成30年 kindle版102/140)

“良い迷い方”、“良い悩み方”があるとすれば、“良い狂い方”もあるのかもしれない。
ずいぶん前から、日本のXでは「人間は、40歳頃になると狂う」という言説が議論の的になっている。
ほんとかどうかは知らないが、もし本当だったら、そこにも“良い狂い方”というのがあるかもしれない。
“良い狂い方”があるならばそこに至る道もあるはずだ。

“良い迷い方”について考えているなかで、今度は“良い狂い方”というテーマが出てきた。
“良い狂い方”について考えを進めていくかどうか、いまは迷いと悩みの中にいる。
人生とは、選択の連続だ。

 

 

絵文字考。

2026年3月末、XではAI自動翻訳機能が本格稼働した。その後ここ2週間ほど、毎日が発見の連続だ。
数日前は絵文字の効用を体感した。

近代絵文字の発祥地の一つは日本だ。ケータイ文化や2ちゃんねるのアスキーアートの存在は欠かせない。
絵文字はおそらく同時発生的に、世界各地で生まれ育ってきた。

〈海外においては、インターネット以前にもフェイスマークが、特に肯定的な感情を表すのに使われていた。イギリスの「i-D MAGAZINE」では、「i-D」(横向けに見ると、ウインクしながら口を開けて笑っている顔に見える。いや、イギリス人の感覚では)が使われていたし、アメリカの学校やオフィスでは、しばしば「: )」(横向けに見ると、ピースマークに見える)を文末につけた、タイプされた手紙やメモを見かけた。〉(井上トシユキ+神宮前org『2ちゃんねる宣言』文藝春秋2001年 p.189)

上掲書では非常に大事な指摘がされているため、繰り返して強調しておきたい。
「i-D」はウインクして口を開けた笑顔に見える。「イギリス人の感覚では」。

こうした絵文字や顔文字は昔、「エモティコン」と呼ばれていたことがある。
Emotion+Iconでエモティコンである。
たしかにこれは、文章に潜む書き手の感情を伝えるのに優れている。

上掲書を踏まえているが、たとえば

It's true😁

It's true😢

では伝わる感情が異なる。

AI自動翻訳はたいへん便利だが、内輪ウケや皮肉、歴史や文化的文脈を踏まえた言葉などは翻訳されにくいことがある。そうした時に思わぬ誤解を生むことがある。
真剣に言っているのか皮肉で言っているのかが異文化に伝わりにくそうな時、絵文字はたいへん有効だ。

気をつけなければいけないのは文化圏により絵文字が持つ意味がまったく異なる場合があることだ。
📛は日本語圏では「名札」を示す絵文字だが、非英語圏ではこれは「Tofu on fire」を示す。ところで、Tofu on fireって何。

豆腐ぐらいならいいがシャレにならない絵文字もある。
あえて出さないが、日本語圏で「汗」を示す絵文字は、アメリカではほかの分泌物を示すという。
この絵文字を日米間で無意識に使うとおかしなことになるから気をつけるべきだ。
これは半分本気だが、絵文字が伝達する中で、誰かが「汗」を「汁」と書き間違えたのではないか。
かつてスキアパレッリがイタリア語で書いた「canali/溝」が英訳されるときに「canals /運河」と誤解されたように、あるいはシンデレラの物語が伝わる時に「vair /毛皮」の靴が「verre /ガラス」の靴にいつの間にか変わっていったように。

個人的に、今までは絵文字を使っていなかった。子どもっぽい感じがするからだ。
だがこれからは、多文化交流のために積極的に使っていこうと思う。
もちろん翻訳を超えない内輪ウケ、しかも特定の年代にしかウケないジョークもやめる。ああいうのはよくない。

だから、内輪ウケもやめて、絵文字をバンバンつかってわかりやすいポストをしたいと思ってるのは

…誰……誰……誰……誰……
俺!?
俺!!
俺俺俺俺‼️
Ahh~↑↑↑💥💥真夏🌞🌴🏄🎇🎆🌺のJamboree〜〜〜〜‼️‼️レゲエ🇯🇲💃🙌🏻砂浜🌺🌺🦭🏖🌴🌞Big Wave🌊🦭🌊🦭🌊🦭🌊💥💥💥🦭🦭🦭🦭🏄🏊🍍🌴🌻☀️🐚👙🦭

 

 

「40歳を越えると狂う」のは、物語の喪失のせい。

インターネット、特にXで繰り返し語られる話題の一つに「40歳を越えると人は狂う」という話がある。本当かどうかは別として、もし本当ならなぜか。

 

40歳を越えると人が狂い始めるのは、物語を喪失するからだ。

アイヌの言葉に、「役目なしに天から降ろされたものは一つもない」というものがあるという。

何かの役目を与えられて天から地上に降ろされたものが、ある日突然その役目を剥奪されたらどうなるだろうか。 狂うしかないのではなかろうか。

 

人はみな、それぞれの物語を生きている。

貧しき境遇から成り上がる物語、豊かな家庭に生まれて財を守る物語、誰かに愛され誰かを愛す物語、憎き敵と倒すために全てを捨てて戦う物語。

 

人は生きるために「物語」を必要とする。 ハッピーエンドでなくてもいい、ただ「物語」でありさえすれば。

若くしてFIREしてハッピーリタイアした人が次第に薄ぼんやりした人になるのはなぜか。物語を喪うからだ。

人の何十倍も努力して事業や投資を成功させるという物語。物語が終われば、主人公は消える。

 

プロスポーツやエンターテイメントで巨額の富を築いた者が、数年後に破産するのはなぜか。サクセスストーリーが終わったのに耐えられず、転落の物語を始めてしまうからだ。

転落の物語は何も無いよりはるかにマシだ。 ギャンブルにハマった人なら分かるが、ギャンブルで最悪なのは全てが終わった時で、どんどんどんどん負けがこんでいる時ですら、「途中」であればタナトスの快感がある。

ハリウッドスターやIT長者はクレバーなので、自分たちの成功物語が終わりそうになると慈善家の物語を始める。 「やらない善よりやる偽善」というくらいで、彼らがどのような目的で慈善をしようと、救われる人がいるならそれでいい。

 

ハラリの主張の一つは、人間は「物語」を共有できる生き物であるということだった。共同幻想といってもよい。

逆に言えば、人間を人間たらしめているのは「物語」で、「物語の喪失」は人間にとって致命的だ。

 

40歳を越えるといろんな物語が終わる。

努力して社会的成功を目指す物語。ラブストーリー。挑戦者の物語。

現代社会は晩婚なので、子どもを持つ人たちは40歳を越えても「苦労しながら子どもを育てる」という物語で延命できる。少なくとも、しばらくの間は。

 

では、「物語の喪失」がもたらす狂いという人生の危機から身を守るにはどうしたらよいか。

答えは3つだ。

 

①「今ここ」を生きる。

前後を裁断し、今ここを生きる。禅の教えだ。

「明日のことを思い煩うな。明日のことは明日自身が思い煩う。今日の苦労はその日だけで十分である」と、マタイ書にもある。

 

物語を諦め、ただひたすらに今ここを生きる。

だがこれは、悟りを開いた達人にしかできないことだろう。 禅ですら、悟りを開くのは衆生を救うためという物語の中にある、とは思う(十牛図『入鄽垂手』など)。

なお善とマインドフルネスの違いは、善は他者救済のための悟りだが、マインドフルネスは自己救済に留まるという指摘があることは明記しておきたい。

 

②大きな物語への収斂

自己の物語が強制終了したら、大きな物語に身を投ずる。

伝統、宗教、国家や共同体の大きな物語。 陰謀論に取り込まれる60代もここに含まれる。

人が”推し”に熱狂するのも、”推し”の物語の一部になれることや”推し”を”推す”人という物語を与えてくれるからかもしれない

 

Well,do as you like.

 

③等身大の新しい物語を始める

もっとも無難で、もっとも現実的な方法だ。

40歳を越えて狂わないようにするため、という視点で、ミドルエイジクライシスを乗り越えるために『物語思考』(けんすう著、幻冬舎)を読み直してみる手もある。

趣味やボランティアはぼくらに等身大の物語を与えてくれる。
趣味として「旅行」が好まれるのも、旅というものが小さな「物語」を与えてくれるからかもしれない。

 

日本時間午前7時。 今日もまた、物語を始めることにする。 それじゃまた。

 

 

BBQから考える防御的グローバリゼーション。

1993年の夏、ウランバートルのバヤンゴルホテルのテレビではMTVが流れていて、そこではアメリカンポップソングで水着姿の女性達が踊っていた。

外国人向けのホテルだったけど、こういうのはモンゴル人の伝統的な価値観にどのような影響を与えるのだろうかとぼんやり考えた。

 

この週末、2026年3月26日ころかの数日間、Xのタイムラインにはアメリカ各地のBBQの写真と、それを巡る日米のXユーザーの交流が見られた。 殺伐とした世界情勢の中、心温まる交流だと思う。
きっかけはこちらのポストだ。

 

 

インターネット文化史に残る歴史的な瞬間に立ち会うことができた。

 

バヤンゴルホテルとBBQから、グローバリゼーションについて考える。

加速主義には効果的加速主義、e/accと防御的加速主義、d/accがあるそうだが、グローバリゼーションにもまた効果的グローバリゼーションと防御的グローバリゼーションがあるのではないか。

グローバリゼーションが我々の生活を物質的、文化的に豊かにしたのは間違いない。 人やモノや情報が全地球的に往来することで我々は豊かになった。

だからといって闇雲にしゃにむに無分別にグローバリゼーションを進めれば(効果的グローバリゼーション)、それは世界各地の文化や伝統、地場産業を破壊する。

防御的加速主義が慎重にAI開発を進めるように、防御的グローバリゼーションもまた慎重にグローバリゼーションを進めてゆく。

 

ぼくは世界中の人が毎日マクドナルドを食べるなんてことは望まない。

だが普段はそれぞれの国の文化に根ざした食事をしながら、望むならば時々マクドナルドを食べたりアメリカ的なBBQを楽しんだりできるくらいの物質的、文化的なグローバリゼーションは期待したい。

もちろん自国の文化を押し付けようとも思わない。

だがもし可能ならば、「生の魚を食べるなんて気持ち悪い」と思わず、「たまにはSushiでも食べてみるか」くらいの文化的なグローバリゼーションは望みたい。

もちろん、世界中の人が毎日Sushiを食べるべきだとも、世界中の人に毎日Sushiを食べてほしいとも思わない。

むしろ、世界中の人が毎日Sushiを食べるような世界は率直に言って最悪だと思う。

もし世界中の人が毎日Sushiを食べるようになったら、こっちに回ってくるマグロが無くなってしまう。

 

 

 

幸せと菜根譚。

かつて世界で一番幸福な国と言われたこともあるデンマークの、オーデンセの街角で老人はぼくにこんなことを言った。

「幸せというのはね。
それだけでは成り立たないものなんだ。
悲しみとか傷ついた気持ちとかそういったものと一緒でないと、幸福は存在できないんだよ。
友達が死んでしまって悲しい気持ち、だけどそれでも自分はまだここにいて、残されたほかの友達と今を生きていることができると感謝する気持ち。
そんなふうに、幸せというのはいつも悲しみとともにあるのさ」

明の時代に書かれた中国の古典『菜根譚(さいこんたん)』にはこうある。
<一苦一楽して相磨練し、練極まりて福を成さば、其の福始めて久し>(中村璋八・石川力山『菜根譚』講談社学術文庫 1986年 p.111)。
<苦しんだり楽しんだりして、磨きあい、磨きあった結果が最高に達して幸福が成就されたなら、そのような幸福にしてやっと永続するものである>(同書 p.112)という意味だそうだ。

今日もまた、あちこちでたくさんの一苦と一楽が生まれて磨きあったことだろう。
願わくばそうして生まれた幸福が永続しますように。