SNS依存症から抜け出すには。

SNSというものは非常に中毒性が高く、相当に危険なものだ。
そんな危険なSNS依存を脱却するために有効な方法が一つある。
句集を読むのだ。
歌集や詩集、警句集でもよい。
SNS依存の理由の一つは活字中毒で、昔だったら食事中にジャムのビンを手に取り原材料を隅から隅まで読んでたような、「短文読みたい欲」の強い人たちがSNS依存になる。
そうした人たちは、句集や歌集や詩集を持ち歩くことで、SNS依存から脱却できる。
そうした句集や歌集を読んでいて今さらながら気がついたことがある。
俳人や歌人というのは、多くの場合兼業なのだ。
学校の先生をやりながら、あるいは研究者をやりながら、俳句や短歌を極めてゆく。
ミュージシャンなんかは「ギター一本で食ってゆく」ことがひとまずの目標だっりするのだろうが、専業の俳人や歌人というのはほとんどいない(といってよいだろうか)。
そしてそれは、俳句や短歌にとってよいことのように思える。
もし仮に、専業の俳人や歌人ばかりだったら俳句や短歌というのは早晩煮詰まって、イメージだけど「純粋数学」みたいな俳句や短歌ばかりになるかもしれない。
そんでもって素人にとって、敷居がどんどん高くなったりするかもしれない。
兼業であることで、俳句や短歌の世界が現実と乖離せず、むしろどんどん世界が広がってゆく面があるのではなかろうか。
現代の詩人であるラッパーも、「職人で雑誌のカバー」「ラッパーでパパ、二足のわらじ」だったりする。おにぎりはシーチキン。
KOHEI JAPANも料理人だった気が。
そうした「兼業」、言葉を変えると「半身」であることの良さというのはある。
武田友宏編『方丈記』(角川ソフィア文庫)読むと、世捨て人みたいなイメージのある鴨長明もほんとの山奥にいたわけではなくちょくちょく京の町に顔出していたみたいだし。
兼業や半身の人に心惹かれるのはぼく自身が「ベッドタウンの子」であることが影響してる気もするが、それはまた別の物語。
ちなみに素人ながら句集や歌集、詩集を持ち歩くようになってSNS依存から脱却できたかどうか、それもまた別の物語だ。