答えのない問いを持つ。

答えの出ない問いを持つ。
そんなことを先日友人Oと話し合ってみた。

浮世を生きていると、答えをすぐ出さなきゃいけない問題が次から次へと襲い掛かってくる。
昼ごはん何にしようかとか、発車間際の電車に飛び乗るか次のを待つかとかいったささいなことから仕事の契約など大きなことまで結論を出さなきゃいけないことばかりだ。
次から次へと訪れる問題と決断の障害物レースをこなしていると、次第に求められる決断のスピードが早くなってくる。
がしかし、そうそう簡単には結論の出ない問いというのも世の中にはあるのだ。

「人間とは何か」、「人はどう生きるべきか」、「人として何が正しいのか」、「ものごとの本質は」。
青臭いのは百も承知だが、答えの出ない問いとはそういった類のものである。
答えの出ない問いを考えることに意味があるのかと人は言うが、それでも問いを心に保ち続けることはとても大事なことなのだ。

答えの出ない問いを持ち続けることはなぜ大事なのか。
答えの出ない問いを持ち続けることで、己の心を強くしていくことができるからだ。

人間というのはどっちつかずの「宙ぶらりん」に弱い。
イギリスの軍事評論家、戦略思想家のリデル・ハートは中西輝政にこう語ったという。
<「ものごとがいずれにも決しない状態に耐えるのはとてもつらいことである。そのつらさに耐えかねて“死に至る道”(後先考えずに飛び込んでしまう衝撃的な行動)に逃げ道を求めようとするものは昔から国家にも個人にもあった。しかし、このつらい『宙ぶらりん』の状態に耐える事こそ、可能性の明確でない勝利の幻想を追い求め、国家を灰燼に帰せしめるよりは、はるかに優れた選択なのだと銘記すべきである」>(中西輝政 『本質を見抜く「考え方」』サンマーク出版 2009年 p.29)。

どっちつかずで結論の出ない「宙ぶらりん」な状態に耐えるには知的な体力が要る。
答えが出ない問いだからといって考えるのを放棄するのでもなく、誰かが与えてくれた正しそうな答えに安易に飛びつくのでもない。
答えが出ない問いだと知りつつ、それでもなお答えを考え続けてこそ心の体力づくりの王道である。

伝統や宗教、規範や道徳といったものをことごとく否定し、現代人は自由になったけれど、すべてを自らに由(よ)るという自由は結構しんどいものだ。
今まで自分をがんじがらめに縛りつけていた伝統や道徳といったものを断ち切ることで得られる自由は、上も下もなく光も闇もない無重力空間にぷかぷかと孤独にさまようことでもあるからだ。
自由を謳歌することは、孤独に耐えることでもある。
そんな宙ぶらりんの現代人が自由を味わいつくすためには、答えの出ない問いを持ち続けることによって心の体力づくりをしなければならない。
それがいやなら、孤独な自由から急いで逃げ去って、権威主義と全体主義の陶酔に身を投じることになるだろう(エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』 東京創元社 昭和26年)。
(ここの部分、うまく料理できなかったが、『自由からの逃走』を元ネタにして「なぜISISにヨーロッパの若者が身を投じてしまうのか」「ネット右翼はなぜ生まれたか」的な文章を作ることは可能だ。伝統と共同体を破壊し、雇用も不安定化した中で、“おおいなるもの”と一体化したくなる若者、みたいな論調で書いていくともっともらしくなるだろう。後者についてはおそらく香山リカあたりがすでに書いてると思う。でもそうしたもっともらしい言説を無批判に受け入れることも、実は答えの出ない問いを持つことと相反していて、心の体力を落とすことになるんだけども)

思考停止するな。
考え続けよ。
孤独と「宙ぶらりん」に耐え、答えの出ない問いを頭の片隅に保ち、心の体力を常に増進させて行け。

「宙ぶらりん」で中途はんぱだけどまあそんな感じでしょうか。
ふわふわしたオチもない話だけど、自由で孤独な無重力空間なのでオチませんでした。
悪しからず。
(facebook  2015年3月6日を転載)