インターネット、特にXで繰り返し語られる話題の一つに「40歳を越えると人は狂う」という話がある。本当かどうかは別として、もし本当ならなぜか。
40歳を越えると人が狂い始めるのは、物語を喪失するからだ。
アイヌの言葉に、「役目なしに天から降ろされたものは一つもない」というものがあるという。
何かの役目を与えられて天から地上に降ろされたものが、ある日突然その役目を剥奪されたらどうなるだろうか。 狂うしかないのではなかろうか。
人はみな、それぞれの物語を生きている。
貧しき境遇から成り上がる物語、豊かな家庭に生まれて財を守る物語、誰かに愛され誰かを愛す物語、憎き敵と倒すために全てを捨てて戦う物語。
人は生きるために「物語」を必要とする。 ハッピーエンドでなくてもいい、ただ「物語」でありさえすれば。
若くしてFIREしてハッピーリタイアした人が次第に薄ぼんやりした人になるのはなぜか。物語を喪うからだ。
人の何十倍も努力して事業や投資を成功させるという物語。物語が終われば、主人公は消える。
プロスポーツやエンターテイメントで巨額の富を築いた者が、数年後に破産するのはなぜか。サクセスストーリーが終わったのに耐えられず、転落の物語を始めてしまうからだ。
転落の物語は何も無いよりはるかにマシだ。 ギャンブルにハマった人なら分かるが、ギャンブルで最悪なのは全てが終わった時で、どんどんどんどん負けがこんでいる時ですら、「途中」であればタナトスの快感がある。
ハリウッドスターやIT長者はクレバーなので、自分たちの成功物語が終わりそうになると慈善家の物語を始める。 「やらない善よりやる偽善」というくらいで、彼らがどのような目的で慈善をしようと、救われる人がいるならそれでいい。
ハラリの主張の一つは、人間は「物語」を共有できる生き物であるということだった。共同幻想といってもよい。
逆に言えば、人間を人間たらしめているのは「物語」で、「物語の喪失」は人間にとって致命的だ。
40歳を越えるといろんな物語が終わる。
努力して社会的成功を目指す物語。ラブストーリー。挑戦者の物語。
現代社会は晩婚なので、子どもを持つ人たちは40歳を越えても「苦労しながら子どもを育てる」という物語で延命できる。少なくとも、しばらくの間は。
では、「物語の喪失」がもたらす狂いという人生の危機から身を守るにはどうしたらよいか。
答えは3つだ。
①「今ここ」を生きる。
前後を裁断し、今ここを生きる。禅の教えだ。
「明日のことを思い煩うな。明日のことは明日自身が思い煩う。今日の苦労はその日だけで十分である」と、マタイ書にもある。
物語を諦め、ただひたすらに今ここを生きる。
だがこれは、悟りを開いた達人にしかできないことだろう。 禅ですら、悟りを開くのは衆生を救うためという物語の中にある、とは思う(十牛図『入鄽垂手』など)。
なお善とマインドフルネスの違いは、善は他者救済のための悟りだが、マインドフルネスは自己救済に留まるという指摘があることは明記しておきたい。
②大きな物語への収斂
自己の物語が強制終了したら、大きな物語に身を投ずる。
伝統、宗教、国家や共同体の大きな物語。 陰謀論に取り込まれる60代もここに含まれる。
人が”推し”に熱狂するのも、”推し”の物語の一部になれることや”推し”を”推す”人という物語を与えてくれるからかもしれない
Well,do as you like.
③等身大の新しい物語を始める
もっとも無難で、もっとも現実的な方法だ。
40歳を越えて狂わないようにするため、という視点で、ミドルエイジクライシスを乗り越えるために『物語思考』(けんすう著、幻冬舎)を読み直してみる手もある。
趣味やボランティアはぼくらに等身大の物語を与えてくれる。
趣味として「旅行」が好まれるのも、旅というものが小さな「物語」を与えてくれるからかもしれない。
日本時間午前7時。 今日もまた、物語を始めることにする。 それじゃまた。
