【保存用】In the midnight hour.

昔の酒場にはいろんな人がいた。

 

以前、想像を絶する人と出会ったことがある。

そのおじさんは、京都大学理学部物理学科卒業で、パリ大学の元教授、若いころはマイルス・デイビスとジャムをしたことまでがあるという。

当然、英語もフランス語もぺらぺらだとかで、しきりに詩か何かを暗唱している。

バーの片隅でフランス語の詩を暗唱する、高そうな三つ揃いのスーツに身を包んだその紳士は、ただどういうわけか、前歯が一本もないのだった。

 

なんとはなしに話を始めたんだと思う。

華麗な経歴に、感心して話を聞いていたがどうも彼は飲みすぎたようで、呂律が怪しくなってきた。

言葉が聞き取りにくいものだから、そのたびにこちらが聞きなおす。 バーボンが相当回った紳士は、そんなぼくに次第にイライラしてきたらしい。

「おれのことを、馬鹿にしてやがるんだろう」と絡んできた。 「おれは、こう見えてヤクザなんだぞ、この野郎」 などと言い出す始末。

 

まぎれもない、 この人はホンモノだ。そう確信した。

ホンモノの、酒乱だ。

 

「やるか、この野郎」 ドカンと音をたてて、酔いどれ紳士がバーボンのグラスをカウンターに置いた。 席から立ち上がろうとする。

だんだん腹が立ってきて、こっちも臨戦体勢に入った。

ガタン、でかい音がして自称パリ大学の元教授が倒れた。 相当飲んで脚に来たらしい。

 

途端にこっちも拍子抜けした。

もう少しで、ミッキー・ロークばりのハード・パンチを奴の口元にお見舞いするところだった。

 

時計は午前3時をわずかに越えていただろうか。 彼の家族が迎えに来た。

京大卒の、物理学博士で元パリ大学教授、マイルスのジャムセッション仲間で ヤクザ兼、酔いどれ紳士の妻だ。

「すみません、うちの人、いつもこうで・・・・。 酔っ払ってあちこちでケンカをふっかけてるんです。 たいして強くないのに、人を怒らせるのだけは得意なんだから」

 

妻が恐縮しきって会計をすませ、その夫婦は店を出た。

コルトレーンのレコードも終わり、しんとしたバーにはぼくと、店員のMさんだけが取り残された。

 

「いつもあんな調子か・・・。そりゃあ前歯も無くすってものね」 顔色一つ変えないままそう言って、Mさんはグラスを片付けはじめた。

(初出はこちら↓)

hirokatz.tdiary.net