ネットと観光。

昔みかけた、「ネットの発展により世界中の観光名所の写真や動画を自宅にいながらにして高画質で見られるようになった。これによってみんな満足するかと思ったら事実は逆で、ネットで見た観光名所に実際に行ってみたいと思うようになり観光が盛んになった」という論考は味わい深い。

インバウンド政策とかも、「ネットで見たけど実際に行ってみたいやってみたい」という欲求を喚起できるかがカギなのだろう。
大塚国際美術館とかも実際に行ってみたいものなあ。

逆に、「ネットで観たら満足してしまって”いかなくてもいいや”って思ってしまうところ」の具体例を挙げてみて比較すると、なにか得られるかも。

たぶんですけど、「きれいな風景ですよ!」ってネットでやっても「きれいですね!PCの壁紙にしました!」で終わりなので、「おいしいものありますよ(ネットでは伝えられませんが)!」みたいな写真・動画などのほうが観光誘致には有効なんでしょうね。

 

水墨画などの世界では、良い絵の基準に、
①その絵の世界に行ってみたい
 ↓
②その絵の世界で遊びたい
 ↓
③その絵の世界に住みたい
みたいなものがあったはず(要出典)。

観光誘致も、「その場に”たたずまいたい”」みたいな欲求を喚起できるとよいのでしょうね。
観光地で着物きつけて散歩させるサービスとか、人力車とかのサービスはそういう欲求にこたえている気がします。

 

書いていて気づきましたが、「その世界に”たたずまいたい”」という欲求を満たす観光地の最たるものがディズニーランドなのでは。

 

 

『ダンダダン』考。

『ダンダダン』を観ながら考えた。
怪異やもののけ、幽霊やオバケの類が人間に由来するものならば、なぜ人口比に合わせてそうしたものが出現しないのだろうか。

霊感なんてものは持ち合わせていないが、あの手の話は必ずひとけの少ない町や廃墟、廃病院が舞台だ。
「死んだ者の霊」みたいなことをいうのならば、多くの人が生き、そして死んでゆく大都市部のほうがたくさん怪異が生産される気がする。
だが世界中から人がたくさん集まる渋谷のスクランブル交差点や新宿で人口に比して幽霊やオバケが現れるという話はあまり聞かない。まあモノノケみたいな人が集まるとは聞くし、東京は怖いところやで。

さて、幽霊やオバケというものが人間に由来するものであるならば、人間のたくさんいるところのほうが幽霊やオバケもたくさん発生するのではないかという仮説を提示した。
しかし実際には、ひとけのないところや廃墟のほうが幽霊やオバケが出やすい(らしい)。これはどうしたことか。

思うにこういうことではないだろうか。
生きている人間が集まる場所は、生者のエネルギーが溢れている。
そうした場所では、死者のエネルギーは圧倒され抑え込まれてしまう。
死者のエネルギーが思う存分暴れ回るには、生者のエネルギーが少ない場所のほうが適している(のではないか)。

だからこそ人間は古来より、死者への弔いを盛大にやり、儀式やそのあとの会食を派手にやることにより、死者を悼むとともに死者へ生者のエネルギーを見せつけ抑え込んできたのではないか。

ひらたく言えばオバケやモノノケはいわゆるコミュ障みたいなもので、ほんとは生者と仲良くしたいのにコミュ強たる生者がキラキラとまぶしいからどう接していいかわからずキョドってしまう、みたいな。
まあ生きている人間のほうが禍々しい。

今日はこの、「オバケ・モノノケ=コミュ障説」について、オレたちがゆっくり解説していくぜ。
(以下略)

 

 

医者の人生は『学ぶ』『働く』『育てる』。

「医者の人生はね、最初の10年は『学ぶ』、次の10年は『働く』、その次の10年は『育てる』だよ。

一人前の医者になるには10年くらいかかる。だから最初の10年は『学ぶ』必要がある。そして、一人前の医者になったら、ソルジャー、1人の戦士として『働く』。そうやって20年くらい経ったら、今度は後進を『育てる』役割が回ってくる。医者の人生というのは、そういうもんだよ」
医学生の頃、公衆衛生学の実習で成田空港の検疫所の見学に行った時に、検疫所の医師にそんなことを教わった。
以来、なんとなくその言葉が頭にこびりついている。


昔の医者のキャリアパス、大学を卒業して大学病院の医局に所属し、諸先輩がたから指導されながら『学び』、いわゆる関連病院に派遣されて『働く』、という路線から離れたのが医者9年目の時。冒頭の言葉が頭にあったせいか、なんとなく引け目を感じながら生きている。後進を『育てる』という役割を担わず、自分のことばかりやっている気がしてならないのだ。「兵役拒否者」のような気分と言えばわかる人にはわかってもらえるだろうか。


嬉しいことにこの秋、『育てる』役割の一端を担うことが出来ている。
母校より医学部5年の医学生さんを3人お預かりし、地域医療のありのままを学んでもらっているのだ。
貴重な機会を与えてくださったI先生、A先生、S先生、ありがとうございます。


『育てる』プロセスというのは、『育てる』側にも学びがある。
医学生さんから「アルコール摂取過剰でニューロパチーを起こすのはどういう病態ですか」と不意に質問されたりして慌てて確認したりと、“手癖”でやってしまっている医療を見直す良い機会となっている。


当たり前と言えば当たり前なんだけど、医学部5年といえば2000年前後生まれ。『LOVE2000』とともに生まれてきた世代だ。おいおい、2000年て、つい最近やで。
「先生、2000年頃ってもうインターネットありました?」なんて聞かれてしどろもどろになったりしている。あったと思います。


先日も医学生さんと街を移動中、沈黙もつらいしあたりさわりのない共通の話題をお互いに探して探して、
「先生、『推しの子』見てます?」
「見てる見てるー」
みたいな会話を繰り広げてしまった。
なんとなく下校中の男子中学生っぽい日々。・

 

 

Pieces of a dream。

「それって、夢は何かってことですよね?」
K先生が言った。
「…セスナの免許取るってどうですか?」

会話や対話は楽しい。自分では絶対に出てこない発想がポンポン飛び出してくる。

「予定外に急に、2、3時間ヒマな時間ができたら何してます?」
ここのところ会う人ごとに、そんな質問をしている。
実際に自分がそんな目、すなわち突然2、3時間ヒマになって「さてどうしたものか」と困った経験があるからだ。
ちなみに、酒を飲むのは無しとする。

以前なら2、3時間ヒマになっても、ふらりと本屋に行ったりCD屋に行ったりした。
本屋に行くのは今も楽しいが、一方で、「この本のネタもとはたぶん古典のアレだよな。新しい本買うのもいいけど、ネタもとの古典はまだ読まずに積んであるし、読むべき古典はいっぱいあるな」という時期に入ってしまっている。
CD屋も、そうとうの店舗が街から消えてしまった。
若い時は街をぶらぶらするだけで楽しかったが、今は感性が摩耗してしまった。
酒を飲まないという“縛り”が無ければまた話は変わってくるだろうが。

急に2、3時間ヒマになったら何をします?という質問に対する答えは人それぞれだった。
「ヒマになったらジムに行ってる」
「料理。それか本屋に行ってレシピ本探してる」
「ひたすら散歩」
「葉巻バーで葉巻吸う」
「調べて映画見に行く。学生時代、映研だった」
「時間が空いた時に行くと決めている喫茶店がある。とにかく時間が空いたらそこに行って本読んだり」 
「ヨガかな」

面白かったのは、
「歌を習おうと思ってる。別に誰に聞かせるわけじゃなくて、自分が歌うまかったら楽しくない?」
なるほど。

「ドローンとかどう?楽しいよ」
と言ってくれた先輩もいた。
「空からの視点なんて普通ないじゃない?前にドローン買って飛ばしたら楽しかった」

そんな中で出てきたのが冒頭のK先生の話だった。
余暇や空き時間を、“夢”実現のひとかけらととらえる発想は自分には無かったので面白かった。

たしかに「空を飛んでみたい」というのは人類の夢だ。
自分の実生活で空を飛ぶなんて無いことだし、セスナの免許を取るプロセスや、その気になればセスナ飛ばせるという感覚そのもの楽しそうだ。

そんなことを想像するだけで楽しくなってきた。
善は急げで、まずはセスナ買ってくる。Amazon冬支度セールは11月12日まで。

 

 

「ザイム真理教」と「それでもなお」

財政規律を至上命題とする「ザイム真理教」なるものはおそらくあるのだろう。
「実はプライマリー・バランスがゼロになりそうだった年があったんですよね。でもその年、アメリカ発の世界的金融危機が起きた。年末に、連日連夜さっむい役所でコート被ってガタガタ震えながらせっかく組んだ予算を組み直しました」と官僚の人に恨みがましく言われたことがある。お疲れ様です。


「財務省の圧力が」みたいなことを言う政治家の人や評論家の人がいる。
そりゃ全国各地の税務署情報収集ネットワークも持ってるし下手すりゃ税務調査ということで何日も何日もオフィスで対応を強いられることもあるだろう。予算も握ってるし。
大変てごわいタフな仕事相手だと思う。

 

だがゆうても法律の中で国のために身も心も捧げて働く日本で最も優秀な人たちが中央官僚である。
「国のために」の方法論はおおいに違うだろうが。
政治家ゆうたらそうした官僚が従うべき法律を作る立法府の人間だ。
大臣ともなれば行政府のトップだし。

 

「ザイム真理教ガー」ゆうてるヒマがあれば、「国のために法律の中で働く最優秀な人たち」にうまいこと働いてもらうよう政治家の方々には頑張っていただきたく。
ひとたび政治家となれば、「日本の国力を削るべく法律や道義や国際正義を無視して働く他国の政治家たち」とも切ったはったやらなければならないのだし。

 

「国のために法律の中で働く最優秀な人たち」にどううまく働いてもらうのか、そのために大風呂敷広げて数字と法律にめっぽう強くなんか知らんけど家族の誕生日まで覚えてくれていて人心掌握してくるコンピュータ付きブルドーザーみたいなやり方がいいのか人事権を取り上げて一括管理するようなやり方がいいのかは知らないが。

 

あらためて、政治家というのは大変な仕事だと思う。
雨の日も風の日も駅に立ち続け理念を訴え、選挙区まわりをし、時に週刊誌に叩かれ、タフネゴシエーターである官僚と駆け引きする。
報われない時も多いだろう。
「それでもなお」と頑張る政治家の方々を、有権者としては応援したい。
Dennoch.

 

 

【備忘録】I hope I die before I get old.について。

ネットをみていて「若い人と話した。彼ら彼女らの世代には長生きしたくないという願望がある」みたいなポストが流れてきた。

 

ショッキングに見えるかもしれないが、The Whoも「老いぼれる前に死にたい」って歌ってるし(『My Generation』)、吉田兼好も「長く生きたぶんだけ恥も多くなる。長生きをしたとしても、四十手前で死ぬのが見た目にもよい」と言っている(『徒然草』第七段)。 ある意味で「長生きせずに死にたい」と言えるのは若者の特権だろう。

実際には、はっと気がつくと長生きしてるものなのだ。恐ろしいことに。いつの間にか。

若い時にはそんなことわからなかったってマックでJKが

ポテトな驚天動地。

「え“え“え“!」

度肝を抜かれる、天地がひっくりかえるというのはこういうことを言うのだろう。何歳になっても死ぬほど驚くことはある。

いまだにショックから立ち直れない。

 

ウズベク料理をつつきながらTさんから教えていただいた秘密で、世界の見方が激変した。

「アメリカ行くとね、どでかいステーキの横に、山盛りのフライドポテト出てくるでしょう。

あれ見てボクらは“さすがアメリカ人はよく食べるなー”とか思うけど、なんとね、あのフライドポテト、食べなくてもいいみたいなんです。

 

もちろん食べる人もいるけど、ちょこっとつまむだけの人も多いし、全然食べない人もいる。日本の、“サシミのツマ”みたいなもんですね。

食べてもいいし食べなくてもいいみたいです、アメリカのフライドポテト」

え“え“え“!

 

「食べないのになんであんなに山盛りかって?

理由はね、“山盛りのほうが嬉しいから”。

映画館のバケツみたいなポップコーンも一緒。全部食べない。

全部食べないのに山盛りの理由?それはね、“そのほうが嬉しいから”」

 

え“え“え“!

実はいまだにショックから立ち直れない。

アメリカも広いし州によって“別の国”くらい違うから、在米のかた、実際のところどうでしょうか?


おまけ)1か月間マクドナルドのメニューだけ食べ続ける映画『スーパーサイズミー』に、数十年ビッグマック(でしたっけ?)を食べ続けてる人が出てきて、でもその人は太ってなくてしゅっとしてるんですね。

その秘訣を聞いたら「ビッグマックは食べるがフライドポテトは食べない」って言ってた記憶。