2024年の珍事。

2024年の都知事選挙では、女性のほぼ全裸のポスターが貼られるという珍事があった。

 

結局都知事選の全裸ポスターは剥がされることになったようだけど、選挙で元力士の人が立候補して「どすこい!国政に張り手!」とか、とにかく明るい安村氏が「安心してください!」とか小島よしお氏が「今こそオーシャン・パシフィック・ピースを!」とかのスローガンで上半身裸の選挙ポスターを貼ったらどうなるか知りたくないと言ったらウソになる。 警察に「迷惑防止条例に触れます」と怒られて「失礼な!これが我々の正装だ!我々の正装が失礼だというのか!」と逆ギレして警察に「その通りです」って言われるとか。

 

まあ普通に考えて、芸としてみてるから面白いのであって、自分ちの隣に小島よしお氏が引っ越してきて毎朝「ウェーイ!」とかやってきたら面白いよなあ。

 

 

学生スポーツはなぜやるのかという話。

学生のスポーツってなんのためにやるんだろうかと考えたことがある。

スポーツというのはやっている限り必ず負ける。

さだまさし的な言い方をすれば、甲子園だって3000幾つの参加チームの中で一度も負けないですむのはただの一校だけだ。

そのほかのチームは、必ず負けでその夏を終える。

 

そう考えると、学生のスポーツというのは負けるためにやるということになる。 もちろんわざと負けるということではない。

蒸し暑いグラウンドやコートや体育館での日々の練習に嫌というほどの時間と汗を流し、先輩だのコーチだの監督だのの叱責や罵倒にうんざりするほど耐え、脱水や筋肉痛や捻挫を乗り越えて試合に臨み、ねばってねばってねばって、そして負ける。

だが負けたからといって負けっぱなしとはいかない。

落ち込み悔しがりチクショウとつぶやいて、それでも明日はやって来る。

負けた翌日から、次の試合にむけての練習が始まる。

 

負けたからといって練習に出ないわけにはいかない。

負けたからといって次の試合を放棄するわけにはいかない。

思う存分落ち込んで気を取り直し、重い体をひきずって練習し、次の試合を目指す。

練習し試合して負け、練習し試合してちょっと勝ってやっぱり負け、さらに練習して試合してもう少し勝ち、それでもやっぱり99%の人は、一番最後は負けて学生スポーツ時代の幕を閉じる。

 

そうしてみんな社会人になって、それぞれの場所に立つ。

それぞれの場所でそれぞれの「試合」があって、それぞれに勝ったり負けたりだけど、負けてもやっぱり明日は来る。

 

そんなことを前もって体感するために学生スポーツっていうのはあるのではないか。

負けることを学ぶ、負けても負けても負けても負けても負けても立ち上がる、どんなに悔しくて惨めで情けない想いをしても、それでもやっぱり何度でも立ち上がることを学ぶために、学生スポーツはあったんじゃないかと思うんですよね。

 

 

 

学校健診の話。

「ものごとは静止画で見るな、動画でみよ」 敬愛するH先生の教えだ。

 

2024年5月末現在のここ数日、タイムラインは学校健診の話題でもちきりだ。

婉曲にいえば男性医師が女子生徒の診察をする際に脱衣させるのはいかがなものか、というのが論点だと思う。

さまざまな立ち位置があり、一部では「それならいっそ学校健診やめてしまえ」みたいな極論もある。

だがちょっと待ってほしい(朝日新聞語法)、本当に学校健診をやめてよいのか。

 

「学校健診をやめる」ということを静止画で考えてみる。

やめた瞬間、羞恥心から解放されてほっとする女子生徒(女子に限らないが)が出現するだろう。それは認める。

けんたろうさんだって「オレのおかげだ」とご満悦だ。

全国で健診にかり出されていた医師たちも、これで本業に専念できると正直ほっとするだろう。

 

だがその静止画のポーズボタンを解除して、動画でものごとを見てみる。

学校健診が廃止されて1年2年3年と経つうちに、ぽろぽろといくつかの病気がこじれる子どもたちが出てきてしまうだろう。

一例を挙げれば側弯症。

東京都予防医学協会年報 2016年版第45号によれば、小学校の脊柱側弯症検診の発見率は0.3パーセント前後。

学校での側弯症検診により、1000人の生徒がいれば3人前後が側弯症を発見され、さらなる医療へとつなげられている。

 

「学校健診廃止」を動画で見ると、そうした子どもたちがよりよき未来からこぼれおちてしまうのが懸念される。

「学校で一律にやらずに、各家庭で病院連れて行けばいいじゃないか」という意見があるのはわかる。

だが、家庭により子どもたちへの接し方に濃淡や温度差があり、社会の多忙化に伴い「子どもを病院に連れていく時間もない」家も少なくないのはネットユーザー諸賢ならご存知のはずである。

 

学校健診の場で、生徒が羞恥心を感じる場面はできるだけ少ないほうがよい。

そのための手段を講じながら、1人でも多くの子どもたちが避けられる病気を避け、よりよい未来に生きていけるようにロングスパンの動画でものごとを考えてゆくのが我々大人の責務ではないだろうか。

付記
・側弯症発見率 https://www.yobouigaku-tokyo.or.jp/nenpo/pdf/2016/04_04.pdf

学校健診の動画を巻き戻しすると、学校健診のはじまりは1888年(明治21年)とのこと。

www.gakkohoken.jp

学校健診の根拠法。

elaws.e-gov.go.jp

もちろん今行われている項目や方法が最善最高不変とは限らない。 たとえば昔行われていた座高測定は、行う意義が乏しいとして平成26年に廃止された。

www.hcc.keio.ac.jp

 

 

 

完結医療。終末医療ではなく。

終末期医療について考えていたらこんな言葉を掘り起こした。

 

〈老いて、死んでいく。医者には何の手だてもありません。医学の遅れとか医療技術の未発達とは、これはまったく別の問題です。

言い換えれば、生き抜いたということじゃないか。治す、治るの問題と違う。たとえオシメを当てた寝たきりでも、ちっとも異常ではなく、そこにあるのは七十年なり八十年なりの人生を、懸命に生き切った人のこのうえなく尊い姿ではないか。たぶんそうなんだ、そうに違いないと考えるようになりました。

治そうなんて、もう思いません。

では、白衣を着て何をしているかというと、治しでも癒しでもない。“送り”です。西陣の人たちとともに生きて、たどり着いたところが「送りの医療」でした。

世間で言われる終末医療とは違います。終末医療、何とも冷たい言い方ですな。そこには人間を臓器の集まりとして見る医学の、メスのように冷たい響きがあるような気がしてなりません。

終末医療ではない。完結医療であるべきだ、本気でそう思います。 老いや死は、人生の終末なんかじゃないんです

その人の人生を仕上げる、完結。

長いドラマの最期に、感動と余韻を残してスルスルと引かれる幕ー。

「イヨッ!成駒屋」

じゃなく、

「イヨッ!おばあさん。みごとに生き切ったね」

(早川一光『お迎え来た…ほな行こか』佼成出版社 平成10年。p.6-7)

 

早川一光先生は在宅医療の先駆けのお一人で、介護保険制度とかができるはるか前から西陣の地で一軒一軒西陣織の職人さんの家を訪ね、人々の生老病死に伴走してきた。

「センセ、最近おしっこが漏れますのや」と相談されれば、「そうか。ワシもや」と答え、ともに生き、ともに往く者としての医療者の背中を見せてくれた。

長らくKBSで番組も持っていたから、京都の地では「イッコーさん」「イッコーセンセ」の名で親しまれてきた(本当だってば)。

 

「治そうと思わない医療」とか「全人的医療」とかは未熟者が表面だけマネすると大怪我大やけどをする。軽々にマネしないほうがよいけれど、「終末医療ではなく完結医療」というのはよい言葉だと思う。

 

そしてまた、ともに生きともに往く者として「生き切る」ということも考えてみたい。

CARPE DIEM.今日という日の花を摘め。

人生を生き切るためには、まずは1日を生き切ることだ。

1日を生き切り、それをただひたすらに積み重ねてゆく。その先にしか、生き切る人生は無い。

そう考えると、いけねえネットとかやってる場合じゃない。

それじゃまた。 皆様、良い1日を。

 

 

 

リアリティショウ。

昔見たリアリティショー。誰か動画持ってませんか?
英ヴァージングループの後継者を探すという企画で、(多分だけど)世界中から我こそは、っていう若者を集めるんですよね。
それで総帥リチャード・ブランソンにみんなで面会するぞって言って、空港に迎えに来たリムジンに若者がワラワラと乗り込むわけ。
で、みんな高揚してるし生意気盛りだから、運転手とかにも横柄な口を聞くわけ。
「遅いぞ!もっと飛ばせ!俺たちゃヴァージングループの後継者候補だぞ!ゲラゲラゲラ」みたいに。
で、会場に着いて若者がワラワラと降りてくると、運転手も降りてくる。
「なんだこのおっさん?」みたいに若者たちが訝しがっていると、おもむろに運転手が顔のゴムマスクを取る。
驚く若者。
運転手はリチャード・ブランソン本人の変装。
彼が言うんすよ。
「運転手に敬意を払えない人間を後継者にしたいとは思わない。帰りたまえ」
生意気な若者は膝から崩れ落ちて、ほんとに泣き出してた。
富と名声のチャンスに、あと数mmまで手が届いてたのにね。
あの番組を見て以来、ぼくは全ての人がリチャード・ブランソンの変装だと思って生きてきた。

手土産は老舗で。

「雑誌の取材で地方に行くときにはね、手土産は東京の老舗のものがいい。
“お宝発見”みたいな企画で、地方の名家とか名士さんとかのところに行って、蔵の奥に眠ってる“お宝”を撮影させてもらったりするんだよ。うまいこと機嫌取って写真撮らせてもらわなきゃなんない。
そういう地方の名家とかってさ、女主人とか奥さんとかは若い時に東京の大学とかに出してもらって、卒業したら呼び戻されたり、名家に嫁いだりしてるわけ。
で、そういう女主人とかお嫁さんとかに『これよろしかったら…』って東京の老舗の手土産を渡すと、『懐かしい!東京にいる時によく食べたワ』なんていって喜んでくれて、取材許可が出るわけ」
 今はなき週刊HのカメラマンのTさんが昔教えてくれた。
インターネット前夜のことで、それこそAmazonも楽天もない時代のことだから、今では手土産事情もだいぶ変わっていることだろう。
だがなぜだかこの話はずっと覚えている。
今、人生の後半戦にこの話を思い出すと味わいが格段に深まっている。
あの頃は手土産を渡すTさんの側に近い年代だったが、今では地方の名家の女主人や「お嫁さん」側の年代に近い。
今では通販やデパートで、地方にいても東京の老舗のお菓子も手に入るだろう。
だがやはり、この話で手土産にするのは東京の老舗がふさわしい。最新流行のお店の品では下手すれば逆効果なのだ。
これは想像だし人によるけれど、大学時代だけ東京で遊学させてもらって実家に呼び戻されたりした女主人の中には、複雑な思いを抱えている人もいるだろう。
「ほんとは私ももっと東京にいたかったのに、実家の都合で呼び戻された!」とか。
そういう気持ちは揺れ動くので、「しゃーない、まあいいか」みたいな境地の人もいるだろう。
しかしもし女主人が「もっと東京にいたかったのに!」みたいな気持ちのフェイズだったら、流行りものはヤバい。
「チャラチャラしたマスコミの若いヤツが、東京の流行りものを見せつけてきた!」みたいに変な地雷を踏んでしまうかもしれないのだ。
そんな見えないリスクを負うよりは、東京の老舗のお菓子のほうがリスクが少ない。
冒頭のように女主人のノスタルジーを呼び起こせるかもしれないし、相手の心に刺さらなくても「何がお好きかわからなかったので…」と言っとけば済む。
だから老舗は強い。
昨夜ネットをウロウロしてたら羊羹の話にぶち当たったのでそんな話を書いてみた。

羊羹の話はこちら↓

togetter.com

 

究極の有限資源は、時間と意志力。

時間と意志力を死守せよ。なぜならそれらは究極の有限資源だから。

 

現代人が一歩外に出れば、無数の人やモノやコトがあなたの時間と意志力を奪いにくる。家庭を持つ者であれば、家の中でも同様だ。古人曰く、〈三十歳を過ぎれば、君の生活は妻子のものになる。〉(キングレイ・ウォード『ビジネスマンの父より息子への30通の手紙』新潮文庫 平成六年 p.34)

 

もしあなたがやりたいまたはやるべきと思えば、喜んで自分自身の時間と意志力を人・モノ・コトに差し出すがいい。

他者からみてそれが無価値であっても構わない。自分が選んだ人・モノ・コトに、存分に時間と意志力を捧げよ。

だが、究極の有限資源である時間と意志力を捧げたくない人・モノ・コトであれば、回避せよ。それが無理なら最小化を試みよ。

一番いけないのは無自覚なまま自分の時間と意志力を垂れ流し一生を終えることである。

 

意に反して自分の時間と意志力を奪う人・モノ・コトを回避するにはどうするか。もっとも身近な例で言えば、気が進まない飲み会。答えは、その場で断る。

我が人生の師の一人、Fさんは見事である。

Fさんは、気が進まない飲み会や会合に誘われたその時点で即座に断るのである。断り方も完成されていて、必ず「私はちょっと…」とおっしゃる。

 

小心者のぼくなどは気が進まない飲み会に誘われたときには、「断ったら悪いかな」などと思い参加の意思表示を保留にしてしまいがちだ。その場合、日を追うごとに気が重くなるし、ますます断りづらくなる。その間、心を煩わして無駄に意志力を浪費してしまう。

それに比べFさんの場合、断る瞬間の意志力は要るものの、断ったあとはずっと心は晴れやかである。

 

立場を替えて、自分が誘う側になったことを想像してみる。一番困るのは飲み会当日まで来るか来ないかわからない人だ。誘った瞬間に「私はちょっと…」と断られた場合には、あっさりと「また誘えばいいか」とスルーされるものなのだ。「私はちょっと…」の「ちょっと」とは何だろう、と思うかもしれないが。

 

究極の有限資源、時間と意志力を死守せよ。

一番大事なものに時間と意志力を思う存分、ふんだんに投入し、それ以外は極力時間と意志力をsaveせよ。

一番大事なものが他者にとって無価値であっても構わない。

 

一番大事なもの以外は大事ではない。

繰り返す。

一番大事なもの以外は、大事ではない。 ちょっと言い過ぎた。ごめんね。

(Facebook 2019年5月15日を加筆修正)