茶番をやり切る、ということ。

茶番センサーを切る。茶番をやり切る。
生きていると、時にそんなことも必要になる。


茶番とは何か。
茶番とは、〈「やらなくて済めばそれに越したことはないくだらないこと」〉である。(借金玉『発達障害の僕が「食える人」に変わったすごい仕事術』KADOKAWA 2018年 p.147)

茶番センサーとは何か。
〈世の営為の茶番性とでも言うべきものを読み取り、「くだらない」という結論を下す能力〉である(上掲書 p.147)。

茶番センサーの優れた人がいる。
そうした人たちは、世のほとんど全てが茶番だと見抜き、人生の早い段階からものごとをナナメに見てやる気を失ってしまう。

だが現実問題として、我々は生きねばならない。
だから時に茶番センサーを切り、「これは茶番だ」と割り切りながらもすいすいと茶番をやり切らねばならない。
こういう精神状態を、80年代なら「ノリつつ醒める/醒めつつノる」とでもいうのだろう。

茶番センサーを切り、茶番に徹せねば生きていけないというのは何も現代人に限った話ではない。
荘子をひもとけば、そこにはこうある。
〈『其の俗に入りては、其の俗に従う』〉(森美樹三郎・訳『荘子Ⅱ』中公クラシックス2001年 p.80)
正確には荘子の言葉ではなく、荘子がその先生から言われた言葉だ。
〈わしは先生から聞いたことがある。それは『その俗にはいったなら、その俗のおきてに従ってふるまえ』というのだ。〉(前掲書 p.81)

生きていればたくさんの茶番に出会う。
「これは茶番だ」と冷笑するのもよいが、どうせ茶番の中で生きていかねばならぬのなら、茶番をやり切ってみる。
しかし茶番に精神の芯まで開け渡さずに、目の前の茶番がなぜ必要とされているのか、その茶番があることでどのように社会がうまく回っているのかじっと観察する。
茶番の中に一抹の真実がないか醒めた目で探す。
そんなことも、生きていく上で必要なのではないだろうか。

茶番の世間にゃ住み飽くが

俺もやるから君もやれ。
茶番・バ・バンバンバン。

 

 

古文漢文不要論の話。

古文漢文不要論の話。

ある文化圏がほかの文化圏を支配する時にどうやるか。
言葉を奪い、歴史を奪い、名前を奪う。

思考とは言語により裏打ちされているものなので、その文化圏固有の言語を奪えばその文化圏固有の思考を奪うことができる。言語をせばめれば思考をせばめることができる(👉ニュー・スピーク、方言札など)。

歴史を奪い手中に収めれば政治的正統性を手に入れることができる。
人間は、前例踏襲、先例参考する生き物なので、判断の根拠の一つは歴史だ。
「かつてこういう場合には、先人はこう対応した」という歴史を紡いで、法も作られる。
あるいは王が王たる由縁は、歴史や神話に基く。
かつて徳川家康は、大阪の陣の時、戦いの準備と同時並行して部下に『古事記』や『釈日本書紀』などの古典を集め写本を作り江戸と駿府に置くよう指示した(遠藤慶太『六国史』中公新書2016年p.203-208)。

家康は京都五山の禅僧に古典文献の複製を命じ、さらにそこから抜書きをさせた。
〈家康側近の日記『駿府記』によれば、抜き書きは「武家・公家の法度」を制定するためという。幕府が武家や公家を統制した法令、武家諸法度や禁中並びに公家諸法度を制定する準備作業なのである。〉(上掲書p.206)

歴史を支配するものは法を支配し権力を支配することができる。

古文に触れていれば、「その気になったときに」「解説を見ながら」日本の古典を遡ることができる。
知らないものは無いも同然だから、古文に触れなければ自らを自国の歴史と分断することになる。

漢文は長らく東アジアのリンガ・フランカだった。
漢文に触れていれば、「その気になったときに」「解説を見ながら」東アジアの膨大な知のストックにアクセスすることができる。
知らなければ出来ない。

古文漢文不要論を唱える人たちがどのような思想に基づいているかは知らない。
個人的には安易な陰謀論には与せず、「ハンロンの剃刀」の立場を取る。

だが、子どもたちにAIを学ばせるために古文漢文などの国語や数学の授業時間を減らす、というのは、自ら進んでいろんなものを手放すことになるのではないかと危惧する。
ではどうやって授業時間を確保するのかということについては、隔週でもよいから土曜日半日の授業を復活させるしかないのではないかと思うが、それはまた別の話。

ちなみに、古文漢文不要を唱える人たちは頭の中が古過ぎる。
80年代90年代の「国家は幻想」とか「これからは国境を越えて企業や個人が活躍する時代!」みたいな価値観からバージョンアップされていない。

大震災やコロナ禍、ロシアによるウクライナ侵攻、移民急増による社会分断を経て、今は「やっぱり国家や社会統合って必要じゃね?」の時代になってしまった。

 

 

宮沢賢治に見捨てられた者の矜持

最近よく思うのは、「宮沢賢治に見捨てられた者の矜持」というもの。
宮沢賢治『告別』にこんな一節がある。
〈けれどもちゃうどおまへの年ごろで
おまへの素質と力をもってゐるものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだらう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ
すべての才や力や材といふものは
ひとにとどまるものでない
ひとさへひとにとどまらぬ〉
かつてこの詩を読んだ時は、怠惰や惰性で人は五年のうちに才や力や材を失うのだろうと恐れた。
しかしゆるゆると生きているうちに、才や力や材を失くした者たちの中には、あえてそれらを手放した者たちや、手放さざるを得なかった者たちもいるのだろうと思うようになった。たとえば何か、守るべきものを守るために。
そうした、五年のうちに才や力や材を失った者たちに対し賢治は辛辣だ。
〈(略)おまへのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまへをもう見ない〉
そうした者たちはもう相手にしない、と賢治は言う。
まあでもみんなそれぞれ事情もあるし。みんないろいろあんのよいろいろ。
おい、ちょっとはこっち見ろよ賢治。

 

 

飲み会はポットラックパーティーでありサッカーである。

飲み会はポットラックパーティーでありサッカーである。


ポットラックパーティーでは、みなで簡単な料理を持ち寄りシェアして食べる。
同じように、飲み会では各自が話題を持ち寄りシェアして楽しく過ごす。
だから飲み会は、話題のポットラックパーティーなのではないか。

そしてまた、飲み会とは話題のサッカーでもある。
誰かがフィールドに蹴り出した話題を誰かがキャッチし、しばし自分で転がしたあと別の人にパスする。そしてその人もまた、しばらく自分でドリブルしたあと他の人にパスする。

さて、楽しくない飲み会というのはどのようなものだろうか。
話題のポットラックパーティーである飲み会で、誰も話題を持ってこない。
話題が無いからしーんとしている。
沈黙に耐えかねた者がしびれを切らして無理やり話題を提示する。誰が一番早く沈黙に耐えられなくなるかを競う、沈黙のチキンレース。
上っ面の会話が何ターンか続く。
そして沈黙。

実は、誰も話題を持ち寄らない地獄の飲み会を回避する方法がある。
ええとこの店を使うのだ。
ええとこの店の価値は実はそこにある。
料理も酒もそりゃあ良いだろうし、お値段も良いだろう。
だがしかし、ええとこの店というのは、料理や酒だけではなく話題もサーブしてくれるのだ。
寿司屋の大将、和食の板前、フレンチやイタリアンのギャルソン、ボーイは、地獄の沈黙飲み会にそれとなく話題を提供してくれる。
「この魚はね、どこどこで獲れたやつで」「この時期美味しいものは」「◯◯という野菜を××したもので」などなど、などなど。
沈黙の飲み会に時折り投げ込まれる救命浮き輪。
これでしばらくはしのげる。
沈黙のチキンレースに限界だった参加者は、人知れずほっと胸を撫で下ろす。

では、盛り上がる飲み会とは何か。
話題というボールが参加者の間でうまい具合に回る飲み会だ。

参加者は話題というボールがパスされたらしばらくの間ドリブルし、また誰かにパスする。
もし「ウケる」というゴールへの軌道が見えたら、自分でゴールしてもよい。
あるいはパスカットしたり話題というボールを奪いに行ってゴールを決めてもよい。あまりおすすめはしないが。

よくないのは延々と一人で話題というボールをドリブルすることだ。
いわゆる「自分のことばかり話してオチがない」というヤツ。
延々と一人でドリブルするならオチというゴールを決めてくれ。
そうでなければ程良きところで他のメンバーにパスを回してくれ。そうトルシエも言ってた。

しかしもっと悪いのは、話題というボールを飲み込んじゃうヤツ。これは困る。
「この間、仕事で札幌に行きましてね。Aさんは札幌行ったことあります?」(話題というボールのパス)
「無いです」(以後、沈黙)
「最近サブスクでハマってるドラマがあるんですよ。Aさんは何か観てます?」(話題というボールのパス)
「観てないです」(以後、沈黙)
「夏休み、どこか旅行に行きたいなーと思いましてね。Aさんのおすすめの旅行先とかあります?」(必死のパス)
「特に」(以後、沈黙)
なぜあなたはそこでボールを止めるのか。どんな話題も飲み込んでしまう、話題のブラックホール。
ネタが無いならせめて「札幌行ったことないけど、Bさんはどうですか?」とかパスを出してくれ。ぼくは沈黙が怖いんだ。

飲み会や会話のパス回し、一人一人のドリブル時間の長さは関東と関西で違う。
関東では小刻みにパスを回すしボールを奪いにくるが、関西では一人あたりのドリブル時間が長くボールのキープ時間が長い。自分でドリブルしてオチというゴールまで決めにいく。
それを知らずに関西で関東のサッカーをやると大変だ。

「この間、心斎橋行きのキップ買って」(ドリブル開始、華麗なゴール決めたるで)
「あーそうなんだー。どこ行ったの?」
「アメ村までちょっと行って」
「あーアメ村有名だよね。どこかおすすめの店ある?」
「まあそれはええねんけど、オバハンが割り込んできて」
「おばさんってそういうとこあるよね。おれも昔さあ」
「聞いて聞いて。ほんでそのオバハンがワイの足踏んでてん」
「あーわかるー。オレも前さあ」
「痛い痛いいうたら」
「足踏まれると痛いよねー。そういえばこの間さあ」
「そしたらオバハンが振り返って」
「足、大丈夫?もう痛くない?」
「そしたらオバハンが振り返って『兄ちゃん 毛ー長いから女の子かと思ったやんか もーよー言わんわ』ゆうて」
「え、大丈夫だよ!ミヤウチくん全然女の子に見えないって」
「いちいち割り込んでくんなや!最後まで話させろや!」

こうやって話題のサッカーに失敗して大阪湾に沈められた関東人は何人もいるから、飲み会や会話では気をつけたいものである。

 

 

直美と一張一弛。

医者業界で最近話題の「直美」。
「なおみ」ではなく「ちょくび」と読みます。
医学部卒業後、2年間の初期研修を終えて直接、美容形成の分野に進む人のことを直美と呼びます。選挙業界の「直衆」(ちょくしゅう)みたいな呼び方ですね。
さて、直美の話。
四書五経の一つ『礼記』に「一張一弛(いっちょういっし)という教えがある(という。手持ちの下見隆雄『礼記』明徳出版社 昭和四十八年は要約版なので載ってないため伝聞)。
弓も人間は緊張しっぱなしもダメで、時々ゆるめてやらないといけないのだという。
だから水戸藩は弘道館と偕楽園を作った。

ibaraki-kairakuen.jp


で、直美の話だけど、昔に比べて中高大の入試の負担は上がってる。
医学部も、昔はゆるいところがあったが今は出席も厳しいしOSCEはじめ様々な試験も厳しい。
医者になったらなったで昔よりいろいろ厳しい。
小中高大学と張りつめて頑張ってきた若き医者はこう思うのではないだろうか。
「オレの人生、どこでゆるめばいいのだろう?」
アメリカの大学生がめちゃくちゃ勉強するのは、高校までにゆるみまくって散々〈青春〉し尽くすからだという(ほんとは人と時代による)。
昔は高校生までまじめに勉強して大学時代にゆるんで、それから社会人生活に入る人も少なかった。
人間の人生というのは、どこかでゆるむ時期も必要なのではないか。
そんでもって張りつめて勉強し続けた若き医者たちが「オレもゆるみてー!キラキラ都会でウェイウェイしてえ!」と選ぶのが直美なのではないだろうか。
だからといってキャリアパスのどこに意識的にゆるむ時期を入れていくのかという制度設計は難しそうだが。
※amazonで見た範囲では「一張一弛」の話の載ってる日本語訳『礼記』の商業出版本は無さそうですが、ご存知のかたご教示ください。

 

 

AIに依存するとサマライズ能力が無くなる仮説。

AIに依存するとサマライズ能力が無くなる。
医者の世界だとAI以前は退院サマリー、紹介状など、膨大な記録から要点をピックアップして他者に伝えるサマライズの連続だった。

AI依存時代、そうしたサマライズ訓練が薄い医者はどうなるか。
たとえば上級医や他科へのコンサルト。
要点の得ない、時系列に沿った、ダラダラとしたコンサルト。
聞いているほうは内心イライラして、「で、結局、オレに何してほしいの?」と思ってる。
でも言わない。令和だから。

AI依存によるサマライズ能力の低下や未習熟、本人は気づかない。まわりも一緒だから。

これは由々しき問題だけど、いったいどうしたらいいかな、チャッピー?

”爪あとを残す”と小ネタ主義。

「懇親会とかパーティーとかあるじゃん?
ああいう時、オレは必ず“爪あとを残す”つもりで行く」
ある時、友人のドクター・ゴトーが言った。

どういうこと?
ぼくが訊く。

「懇親会とかパーティーとかにさ、教授とか院長とか、とにかく偉い人が来るじゃない?
そういう時に前もって、“今日はあの教授にあの話題をしてみよう”とか“あの院長と会ったらこの話を振ってみよう”って決めておく。
それで懇親会とかパーティーに行くまでに、必ず話題とか話のネタを仕込んでおくんだ。

そういう懇親会やパーティーで、教授とか院長とかと会話できるのってたかだか数分〜10数分じゃない?
その数分〜10数分で相手の印象に残るよう心がけて、前もってネタを準備するようにしてるんだよ」

正直言って目からウロコであった。
仕事上、そうした懇親会やパーティーとかに参加する機会はあるが、そうした心構えで参加したことは一度もなかった。
その結果いつもそうした懇親会やパーティーでは薄ら笑いを貼り付けてうろうろし、気づけば数分おきに数mlずつアルコールを口に含みながら「早く終わらないかな」とだけ思いながら過ごすことになる。

「外国人のいるパーティーで日本人はひたすら黙っている」のはなぜか、ということについて斎藤兆史先生と齋藤孝先生はこう結論づけている。
すなわち、ネタが無いから。

〈兆史 パーティーやセミナーに出るなら、相手に認められるくらいの小ネタを用意し、英語で話せるように暗誦しておく。そして、ここぞというチャンスがあったら、そのタイミングを逃さず小ネタを披露する。こういうトレーニングが必要です。(略)〉
(齋藤孝+斎藤兆児『日本語力と英語力』中公新書クラレ 2004年 p.128)

他国語主体のパーティーとかで壁の花になる経験をした人は少なくないと思う。
あれは語学力の問題(だけ)ではなく、話すべきネタを準備していないせいなのだ。

母国語での会話であれば、臨機応変に脳内の話題ストックから話題を取り出して会話をつなげることができる。これは多くの場合、無意識に行われる。
だが他国語での会話では母国語と他国語の変換にエネルギーを取られるため、脳内の話題ストックから無意識に話題を取り出すところにエネルギーを割くことができない。そして、壁の花と化す。
そこの部分を事前にやっておいて、話題、小ネタを他国語で準備しておくことにより壁の花からパーティーの花になる、というのが斎藤兆史先生の“小ネタ主義”である。

この“小ネタ主義”を母国語でもやろうというのがドクター・ゴトーの“爪あとを残す”という心構えである。
ほんとうに目からウロコだったので、ぜひともマネしようと思う。

それにしてもゴトー先生はまだ来ないな。そろそろパーティーが始まってしまう。
エストラゴンとヴラジミールはもう待ち合わせ場所に着いているみたいだが。
そのうち来るだろうから、もう少し待ってみるか。