「欲望の枯渇」問題。

「ほしいものが、ほしいわ。」
糸井重里氏の名コピーである。
 
「欲望の枯渇」。
ここ数年のテーマだ。
 
 加齢に伴い(現実を直視するのは大事だ)、欲しいものは無くなり、やりたいことも無くなった。食べたいものも飲みたいものも無くなり、ただただスマホの画面をスワイプするのみ。虫だったらとっくに死んでいる頃だ。
幸いなことに良い仕事をしたいという欲求は残っているから日々のリズムは刻めている。それだけのことだ。
 
頑張って心の奥底を漁ってみると、まだ会いたい人に会いたいとか、行きたい場所に行きたいという欲求は残っている。しかしコロナ禍でそうした欲求のことも忘れ去ってしまった。
 
この「欲望の枯渇」というのは当事者としては深刻なテーマで、今さらながらに「人はなぜ生きるのか」なんてことを考えてしまう。
そんなことを言うと、「じゃあお金とか要らないんすか?」みたいに言われることもあるが、お金は生活を守りながら欲望をかなえる道具であり手段でしかない。そうだろう?かなえるべき欲望が無いのに道具や手段だけ血眼になって集めて何になるというのだ。
 
困ったときは人に聞け、ということでここ数年、会う人会う人に「欲望の枯渇」という悩みを相談している。さぞやウザいことだろう。ごめんね。
相談してみると得られることも多い。
 
先日相談した友人Tはこう言った。
「いろんなものに触れ合うのが足りないんじゃないの?
“触発”っていうくらいで、いろんなものに触れ合ったりすれば心が動くんじゃね?」
4人でバリバリ肉を喰らいながらそんな話をした。
なるほど。
 
確かに新たな関係性の中からしか新たな心の動きは生まれないのかも知れぬ。
コロナ禍の中で人と人との関わり合い、からみ合いということに臆病になっていた。
ネットばかりやっていてはダメだ。
思い切ってネットから離れ、新たなからみ合いの中に身を投じなければならぬ。
と、ネットに書いておく。
 
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