”偉き人”と”完き人”

若い人へ。

ネット上では社長や教授のハイパーアクティブなツイートを見かける。「何者かに成れ」という圧力が強い世の中である。

だが、あれを見て「俺はまだまだだ」と凹む必要はない。

なぜなら、社長や教授は『鬼滅の刃』の“柱”みたいなもの、渋澤栄一のいう“偉き人”で、どこかイカれてるところがある。 “隠”や隊士がいてこそ鬼殺隊だし、社会には渋澤栄一翁のいう“完(まった)き人”が必要だ。

 

そりゃあまあ、なれるものなら”偉き人”や“柱”になりたいけどみんながみんな“柱”になれるわけでもない。

世に言う”偉き人”というのは、智情意がアンバランスで、なにかが欠落しているかわりにほかの何かが突出している。それに対し、”完き人”は智情意のバランスがよい。

 渋澤翁は、“偉き人”は智情意がどこかアンバランスですごいけど、智情意がバランスのよい“完(まった)き人”は社会で引っ張りだこだと書いている(『論語と算盤』参照)。

 

それに、”偉き人”というのは狙ってなれるわけではないところがある。

司馬遼太郎が、「英雄には2種類いる。自ら目指して英雄になった者と、ならざるを得なかった者と」みたいなことを書いていた。

“柱”や“偉き人”もしかりで、おそらく多くの“柱”は、ならざるを得なくてなったはずだ。 己の底から突き上げてくる何かとか、時代や環境とか、そうしたものが相まって”偉き人”を生み出していく。

ウクライナのゼレンスキー大統領だって、平和な世ならコメディアン出身の面白大統領で終わっていたかもしれない。ゼレンスキー大統領が面白大統領のままでいられる世界線のほうが、何億倍もよかったのだが。

 

”偉き人”を”偉き人”たらしめる内側から突き上げる衝動、自己表現欲求とか事業欲とかは、時に自分や周囲を焼き尽くす炎となる。

古来より破滅型の天才というのは多いし、あるいは家族がうまくいかないケースとか。

先日も、とある漫画家が、家族のツイートで炎上していた。

「何者かになりたい」「何かを成し遂げたい」という欲求は、多くの場合、まわりを巻き込んでしまう。そしてそれは時に悲劇となる。

それでも“偉き人”になりたければ、淡々とやるしかない。 淡々と、濃密に、システマチックに。 ラッパーのエミネムは、定時でレコーディングを上がるという。

togetter.com

 

自分や周囲を焼き尽くしかねない表現欲求という“炎”をうまくコントロールし、淡々と濃密にシステマチック積み重ねる偉大な表現者として、『こち亀』の秋元治氏、本宮ひろ志氏などをイメージしている。音楽だとB'zとかローリング・ストーンズとかもそうだろうか。

 

「何者かになれ」「何かを成し遂げよ」。

スマホの画面から押し寄せてくるそうしたプレッシャーにへこたれそうになったら、”偉き人”もよいが”完き人”も悪くないということを思い出していただければと思う。

 

もっとも、

〈(青年は)偉い人になれと言わるれば、進んでこれに賛成するが、完き人になれといわるれば、その多くはこれを苦痛に感じるのが、彼らの通有性である。〉(『論語と算盤』角川ソフィア文庫 平成二十年 p.105)と渋澤翁も書いているから、若者に聞いてもらえないのは承知の上だが。