我より古(いにしえ)をなす。

「我より古(いにしえ)を為す」。


鎖国の世に、手探りで蘭学を学んだ先人たちのことを、福沢諭吉翁が書いている(『慶應義塾の記』)。
書籍もなく、ともに学ぶ友も身近にいない彼らは、遠く長崎をたずね、オランダ人と会えば教えを乞い、そうして蘭学を打ち立てた。
先哲にならい、我らも洋学をここで学ぼう、〈千里笈(きゅう)を担うてここに集い、才を育し智を養い〉〈協同勉強してその功を奏せよ〉と福沢翁は慶應義塾に集った者たちを鼓舞している。

 

昔からあって当たり前のようなものでも、必ず誰かが始めている。ならば、その始める者が自分であっても構わない。いや後の世に、「古(いにしえ)」と呼ばれるくらい永続する学問や文化を我らこそが始めようじゃないか、というのが、「自我作古」の気概なのだろう。

 

「古(いにしえ)」と思われてるけど意外に最近誰かが始めた、みたいなものは無数にある。
ごく身近なものだと、水戸名物の「天狗納豆」は明治22年に売り出された。笹沼清左衛門という人が、「水戸の名物を作ろう!」と奮起して、研究に研究を重ねて作ったのだという(太田奈緒・河合敦『この歴史、知らなくてすみません。』PHP文庫 p.180-183)。ごく最近、始まったことなのだ。

 

ポストコロナの世がどうなるかわからない。
今まで当たり前だったことが当たり前でなくなってきているし、今まで当たり前でなかったことが当たり前になってきている。
後の世の人が「古(いにしえ)」として認識するような仕事や風習や、もしかしたら文化文明の芽が、いまあちこちで芽生え始めているのだろう。
その「古」を始めるのは、我々なのだ。

 

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