「つかんではなしてギュッと締める」の話。

『インベスターZ』という漫画の1シーン、「つまらん映画は冒頭で出て損切り」の話がTwitterで話題だ。

創作論の専門家でもないし成功の方程式は無数にあるのが前提。

 

映画とネット動画、あるいは講演会と文章の違いは何か。強制性だ。

映画や講演会では、基本的に観客や聴衆は見続ける聞き続けることを強制される(もちろん自分が望んでだけど)。

一方、 ネット動画や文章は、基本的にはいつ見ることや読むことをやめても構わない。構造的な話だ。

 

2時間なら2時間、見ること聞くことが確約されている映画や講演会では、はじめのうちは一見低調でも、後半に向けてぐわーっと盛り上がっていくような構成が許される。

あるいはわざと前半は低調にしておいて、そのリズムに観客や聴衆が慣れたところで一気にギアを上げていくと印象が強くなる。

 

一方で、テレビや動画や文章では、見る側や読み手にいつ立ち去られてもおかしくない。このため観客聴衆を拘束できる映画や講演会とは構成の仕方を変えなければならない。 あるでしょ、冒頭からだらだらと何を言いたいのかわからなく読むのやめちゃう文章とか。

 

ではどうするかといえば、「つかんではなしてギュッと締める」だ、と中島らも氏が『水に似た感情』で書いている。

冒頭に、見る者読む者の心をつかむシーンを持ってくる。「なんだろう、何を読ませてもらえるんだろう、何を見させてもらえるんだろう」と思わせるわけだ。 らもさんはインディジョーンズの映画を例に挙げている。

 

ブログや Twitterとかで一番マネしやすいのは誰かの会話で文章を始める方法。

人間は、誰かが話していると本能的に耳を澄ますのだ。会話で文章を始めるのは使い勝手がよい手法である。

あとは偉人の格言、警句を冒頭にポンと置いておく。なんかエラい人の話っぽいから読まなきゃと思わせるわけだ。

またこの文章でもそうだけれど、冒頭に「言い切り型」の一文を持ってくると、「そうだそうだ」と思ってくれる読者と「え、言い切ってるけどホントにそうなの?なんとかアラを探してやる」という読者の両方をつかむことが出来る。

 

「つかんではなしてギュッと締める」の「はなす」は「話す」であり「放す」であり「離す」でもある。

うまい具合に読み手観客の心をつかめれば、しばらくの間はお付き合いいただける。 その間に、自論や自説、伝えたいことを展開する。

ここの部分は好き好きだが、ある程度ゆるく話すほうが効果的だ。

ガチガチに読み手の解釈をしばるような書き方や語り口をしてしまうと、息苦しいし、かえって話が広がらない。

語り継がれる名作などは、「ここの部分はファンの間でも解釈が分かれる」とか「このセリフをどう捉えるかは今も論争になる」みたいに、ある程度読み手観客の心を「離し」て「放し」つつ「話し」ているわけだ。そのほうが広がりが得られる。

ただし学術論文や論説文では、解釈の余地を残さず一語や一文は一定義であることが望ましい。

 

最後の「ギュッと締める」はオチ、クライマックスだ。 このオチに意外性を持たせるためには(ためにも)、中盤の「はなす」は「離す」であるのが良い。

読み手観客の心を「離し」て「放し」て、場合によっては誤誘導をしてオチの意外性につなげるのだ。

 

はじめの話に戻すと、「つまらない映画は5分で出ろ」みたいな話はメディア特性を無視した暴論である。

しかしながらメタ視点で見れば、『インベスターZ』がどういうことに心惹かれる読者層をターゲットにしたメディアかまで考えるとこれまた興味深いから、とにかく『インベスターZ』は読んでみてもよいと思う。