先日出回った経産省『次官・若手プロジェクト』について、ネット上では批判と絶賛が渦巻いている。
正直言って、仮に同じ完成度のものをどこかのシンクタンクかコンサルタントが作ってもってきたらお金を払う気になるかと考えると、内容について絶賛する気にはなれない。だがそれでも、本ペーパーを作成したことおよび広く公表・拡散し議論に火をつけたこと自体については強く歓迎したい。
小宮隆太郎らによる『日本の産業政策』(東京大学出版会 1984年)によれば、日本の産業政策は敗戦から1980年代の間を3つに分け、それぞれの時期に傾向があるという。
1つ目は敗戦から高度成長に入るまでの復興期。復興期は、戦時統制経済の延長線上で、官僚統制型の経済運営が行われた。
2つ目は1970年ごろまでの高度成長期。高度成長期は、官主導・統制経済を志向する行政機構と民間の企業家精神-いわゆるアニマル・スピリット-とのぶつかり合いの時代。
3つ目は1970年以降の高度成長が終わり、石油ショックにゆれたあとの時代。この時代には行政機構は官主導の限界を感じつつ、技術・知識に対する補助や衰退産業への調整援助を産業政策の中心とした。
上掲書『日本の産業政策』が強調する点の一つは、敗戦後の日本の経済は「日本株式会社論」がイメージさせる官主導の疑似統制経済ではなく、<民間のイニシアティブとバイタリティ>によって牽引されてきた面が大きいということである。少なくとも同書の視点からは、敗戦後は官がすべてをお膳立てして民は活躍しないというのは大きな誤解だったということが言える。
その上で同書が指摘しているのは、<日本の産業政策として、(略)、かなり有効であったのではないかとわれわれが考えているのは、さまざまな審議会やビジョン行政および経済計画の作製・公表などを通じる情報の収集・処理・伝達の機構である。(略)これらの審議会を通じて各企業は他産業・他企業の将来的な見通しを得、それによってより明確な将来見通しを得ることができたこと、また、さまざまな政府計画によって、政府の将来経済見通しを理解し将来の政策の予想を樹てる(「樹てる」はママ)ことができたことは、価格機構とくにその情報上の限界を補完するものとして有効だったと考えられる(略)>(上掲書p.482)ということである。
要するに、政府やいくつもの企業が互いに相手の腹の探りあいをするのではなく、情報の収集・処理・伝達を官が行うことで、ステークホルダー同士が効率的にそれぞれの将来ビジョンを描くことができたのが、日本の産業政策のキモであった、ということだ。
(同書が出版されたのは30年以上前なので、日本の産業政策について新しい知見、別の見方が登場していると思われることに留意)
日本の産業政策の有効な方法が情報の収集・処理・伝達であったとすると、今回の『次官・若手プロジェクト』はその系譜に乗りうる。
今回の内容のステークホルダーは企業ではなく国民全員だ。経産省の若手の現状認識を「伝達」することで、各国民が次の生存戦略を考える一助となるわけである。
完成度が必ずしも完璧でない状態で公表・拡散に踏み切ったこともむしろ歓迎したい。
行政機構の仕事の流れはおそらく下記のような順番で行われる。
すなわち、
①現状を認識する(政策立案者は世界・日本・社会をどうとらえているか)→②あるべき姿と比較する→③現状とあるべき姿のギャップを埋めるべく政策として形にする→④現業サイドなどがアクションをとる
最悪なのがいきなり④が行われることだ。
国民もほかの行政機構も①から③を知らされてないまま、突然④のアクションが取られると大混乱だ。他者に寝耳に水で④のアクションが取られて国家として収集がつかなくなった事例として戦前の関東軍の諸行動を挙げたら突飛だろうか。半藤一利『昭和史1926-1945』(平凡社ライブラリー 2009年)なんか読むと、しょっちゅう現場の判断でとんでもないことが行われて、上層部が事後承認みたいな話が出てきてくらくらしてしまう。
それに比べたら①、②の段階で公表・拡散してくれたほうがはるかに望ましい。適切な批判や指摘を聴きいれて修正・バージョンアップしてくれるならという条件付きだが。
立派な政策として強固なものを打ち出す前に、①、②の段階で世に問うてくれたほうがよいのはなぜか。
われわれがこれから迎えるのは急激な変化が加速しつづける時代、「アッチェレランド」だからだ。
「アッチェレランド」は音楽用語で「次第に早く」の意味で、科学やテクノロジーの加速度的な進化・変化に伴い、人間の生き方や社会のありかたの変化もどんどんと加速し続ける時代のことである(英『エコノミスト』編集部『2050年の技術』株式会社文藝春秋 2017年)。
変化が加速し続ける時代、アッチェレランドでは誰も先のことなんかほんとうにはわからない。変化が変化を生み、事態は変わり続ける。
そんなアッチェレランドの時代の生存戦略はおそらく、「β版の思想」が必要となる。
工業製品が故障や不具合があるまま販売されることは許されないのに対し、ソフトウェアは未完成品、β版の状態からバンバン市場に出回る。
なんの不調もない完璧なソフトウェアを作り上げてから市場に問うより、多少荒削りでも市場に出してユーザーに使ってもらい、積極的に改善点を指摘してもらうのが「β版」だ(あってる?)。
これから社会全体が「アッチェレランド」に入れば、時間をかけて完璧な政策を作ってから世に出しても間にあわない。であれば、荒削りのプロトタイプのまま世に出して、問題点・改善点をどんどん指摘してもらって手直ししながら政策を練っていったほうがよいということになる。
今回のペーパーも、健全な批判・指摘が受け手側である国民サイドからなされ、それを取捨選択しながら取り入れられることができれば、「β版の思想」の体現となるだろう。
実際、もういい加減、無謬性の神話を降ろす時期ではないだろうか。
「私、失敗しないんで」という無謬性神話は、官も民も、ぼくのいる医療業界も、みんなを苦しめる。
医療業界では20世紀の終わりに米国医療の質委員会が『to err is human 人は誰でも間違える』と宣言して、医療ミスは起こり得ることを前提にシステムを組み立てることを提言した(が、いまだに日本の医療業界には浸透していない気がする。「ヒヤリハット」はミスした罰や見せしめに書くものじゃないはずだ。閑話休題)。
無謬性神話は行政においても不経済でもある。
元鳥取県知事片山善博氏は著書の中で固定資産税の課税評価についてこう述べている。
<大切なことは、人間のやることには間違いがありうるということを前提にして、其の間違いを速やかに直す仕組みを用意しておくことである。(略)
残念なことに、市町村によっては固定資産評価審査委員会に対する不服申し立てが出てくることを極端に避けようとする姿勢が見られる。しかし、不服申し立ては避けるべきものではなく、むしろ歓迎すべきものだと観念しておいたほうがよい。というのも、大量の固定資産の評価を一つひとつ全て間違いなく処理するためには、幾重にもチェックして完璧を期すほかはないが、それには膨大なコストを要することになる。それよりも、そこまでコストをかけず、もし間違いやミスがある場合には納税者からそれを指摘してもらう仕組みにしておいたほうが、よほど経済的なはずである。>(片山善博『市民社会と地方自治』慶應義塾大学出版会 2007年 p.50-51)
今回の経産省『次官・若手プロジェクト』も健全な批判・指摘があればそれをどんどん取り入れていただきたいし、だからこそぼくは人格攻撃もプロジェクトそのものを全面否定も大反対なのだ。
今回の『次官・若手プロジェクト』に対して痛烈な批判をしている一人が常見陽平氏であるが、氏のスタンスに抵抗があるのはそんな理由だ。
「民主主義体制において、政府というのは<彼ら>ではなく、<我ら>なのです」、とヒラリー・クリントンは言った(『村中みんなで』あすなろ書房 1996年 p.321)。
「脱官僚」の旗印のもと官僚機構を嫌悪して全面否定してもものごとがうまく回らないことを、ぼくたちはしばらく前に学んだはずだ。
政府が<彼ら>ではなく、<我ら>であるならば、無暗やたらに敵視するのは最後の最後までとっておくべきだと思う。
それよりもβ版の段階で現状認識やあるべき姿を共有し是々非々で議論を行い、よりよき共通の感覚を形成し、そうして作られた新たな共通の感覚=コモン・センスに根差した政策が練られることを期待したい。
それにしても、やはり『次官・若手プロジェクト』を公表・拡散したのは素晴らしいことだと思う。黙ってれば余計なことを言われないで済むのに、問題提起のために批判も覚悟の拡散だったのだろうか。
あるいはもしかして、総理のご意向が忖度でもされたのだろうか。最近忖度されやすいみたいだし。
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