「あたまの良さ」と「あたまの悪さ」のあいだで。

「科学者になるには『あたま』がよくなくてはいけない」。同時に「科学者はまた、『あたま』が悪くなくてはならない」。そんなことを、寺田寅彦が書いている(『科学者とあたま』。角川文庫『読書と人生』p.91-97)。
 
もちろんあたまが良くなくては科学研究はできない。だがあたまが良すぎると、みなが当たり前だと通り過ぎる自然現象の中に潜む自然界の謎を見落としてしまう。「これは何なんだ?」と思うことなく全てをスピーディーにこなしてしまう。
 
〈いわゆる頭のいい人は、いわば脚の早い旅人のようなものである。人より先きに人のまだ行かない処へ行き着くこともできる代りに、途中の道傍あるいはちょっとした脇道にある肝心なものを見落とす恐れがある。(略)
 頭のいい人は、いわば富士の裾野まで来て、そこから頂上を眺めただけで、それで富士の全体を呑込んで東京へ引返すという心配がある。富士はやはり登ってみなければ分からない。〉(上掲書p.92)
 
寺田寅彦のいう、「あたまが良くなくてはならぬが、同時にあたまが悪くなくてはならない」というのは、もしかしたら万事にあてはまるかもしれない。
あたまの良い者がみな常識と疑わぬ社会慣習の中に「これはおかしい。正さなければならぬ」という問題を見つけて自ら先頭に立つ気概があるからこそ政治家になるのだろうし、「こんな商品やサービスが世の中にないのは何故だ。無いなら俺がやる」と思うからこそ起業家になるのだろう。
あたまの良すぎる者からは、「アイツは馬鹿だなあ」と思われるほどの行動力と熱量が無ければ政治家も起業家もやってられないだろう。
 
あるいは人間関係もそうで、おそらく恋愛なんかもあたまの良すぎる者がああだこうだ言っている間に猪突猛進タイプの者が当たって砕けろとぶつかってゆく。恋愛イコール結婚でもなく結婚イコール親となることでもないが、先進国で軒並み少子化になるのも、皆があたまが良くなりすぎるのも遠因かもしれない。
 
うまい具合に「あたまが良い」と「あたまが悪い」の相矛盾する状態に自分をチューニング出来るかが、いろんなことを為していくコツなのでありましょう。

まあなんだ、みんながみんなひろゆき氏みたいだったら世の中回りませんな。