思ってたより話題にならなかった、雑誌正論7月号の記事『セクハラはチンパンジーもやっている 長谷川三千子×竹内久美子』。この批判の三回目です。一回目と二回目はこちら↓
動物行動研究家、竹内久美子氏のよろしくないところ1つ目は、言説の進化がまったく見られないことだ。動物のオスとメスがどうこうしたから人間社会はこう、というパターンで90年代に成功したので、その勝ちパターンのまま四半世紀もやっている。動物行動研究家なんだから、少しは進化したらどうか。
さて竹内久美子氏のよろしくないところの2つ目は、動物界のたった一つの事象を好き勝手に切り取り、人間社会の現象に対する「仮説」ではなく「ご宣託」にしてしまっているところだ。平たく言えば、決めつけすぎで言い切り過ぎ。
人間社会なる摩訶不思議なものを説明したい説明されたいっていう欲求は誰しもが常に持つ。
人間社会においてどうしてこういう事象が起こるんだろうって疑問は常に湧いてきて、それに対するアンサーが占いだったり科学の仮説だったり。
ただ気を付けなければならないのは、仮説はあくまで仮説にすぎないのに、話し手聞き手の問題で、その仮説が「ご宣託」というふうに流通してしまう(竹内氏の場合には意図的に流通させている)場合があることだ。
竹内氏に限らず、自然科学の一分野の仮説をさも真実であるかのように人間社会にあてはめて「人間はこういうもの。〇〇科学の最新理論で証明されている」と言い切っちゃうやつってのは腐るほどいる。そういう輩はそのまま腐ってしまって構わない。
これは日本だけの現象ではない。
人文科学分野で、あまりにテキトーに自然科学の用語が濫用されているのに腹を立て、テキトーに自然科学の用語をちりばめて人文科学の論文をでっちあげて学術誌に載せちゃった人たちがいる。ボストン生まれのアラン・ソーカルとベルギー生まれのジャン・ブリクモンだ。
思わせぶりに自然科学の用語を濫用してでっちあげた論文が学術誌に載っちゃったこの事件は「ソーカル事件」として有名だ。
彼らは自然科学と人間科学の関係について、こうまとめている。
<1 自分が何をいっているかわかっているのはいいことだ。(略)
2 不明瞭なものがすべて深遠なわけではない。(略)
3 科学は「テクスト」ではない。自然科学というのは、人間科学ですぐに使うことのできるメタファーを集めた倉庫ではない。(略)
4 自然科学の猿真似はやめよう。社会科学には独自の問題があり、独自の方法がある。(略)
5 権威を笠に着た議論には気をつけよう。もし人間科学が、自然科学の否定しようのない成功から何かを引き出したいならば、専門的な科学の概念をそのまま拡張することによってそうする必要はない。それよりも、自然科学の方法論的な原則の中の最良のものから役に立つことが学べるはずである。その手始めは、ある意見の価値は、それに賛成する人、反対する人の人間的な質や社会的地位を考えに入れず、その意見を支える事実や論拠に基づいて判断するという原則だ。
これは、もちろん原則にすぎない。たとえ自然科学においても、これがあまねく尊重されているということはない。科学者といえども所詮人間であり、どうしても流行に流されたり天才に媚びたりすることは避けられない。それでも、われわれは、神聖な典籍(通常の意味では宗教的といえない文書でもこの役を果たすことが十分ありうる)の解釈や権威を笠に着た議論を決して信用しないというまったく正当な姿勢を「啓蒙主義の認識論」から受け継いでいる。(略)
6 個別な懐疑と極端な懐疑主義を混同してはならない。(略)
7 曖昧さは逃げ道なのだ。(略)>(アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン『「知」の欺瞞 ポストモダン思想における科学の濫用』岩波書店 2000年 p.246-252。太字は原文のまま、下線部は筆者)
ソーカルらのまとめで特にしびれるのは「5 権威を笠に着た議論には気をつけよう」だ。
自然科学というのは、教会の権威を疑い、世俗の常識を疑い、自分自身の経験すら疑うことで発展してきた。
すべてを疑うことが自然科学の成功の秘訣で、だからこそ自然科学を愛する者は自ら権威と化すことは避けるべきだと思う。
疑うことを許さない科学は、ただのシューキョーだ。
若かりし頃の竹内氏は、学会の権威主義に嫌気がさして学会を飛び出した(という設定になっている)。
権威主義に疑問を呈したはずのご自身が、動物行動学の権威として一般読者に「ご宣託」を乱発し続けて人心を惑わし続けた、というのが竹内氏のこの四半世紀だったのだ。
(もうちょっと続く)