積ん読とトキメキと(その8)

しつこく積ん読派とトキメキ教の話。
 
〈かりに天界・気象界の事象にかんする気がかりとか、われわれにとって死が何ものかでありはすまいかという気がかりとか、さらに、苦しみや欲望の限界についての無理解とか、これらのことどもがすこしもわれわれを煩わさないとすれば、われわれは、自然研究を必要としないであろう。 
 
 神話にかんすることが何か気にかかっていて、全宇宙の自然(真実在)が何であるかを知らないならば、われわれは、最も重要な事柄についての恐怖を解消することができない。それゆえ、自然研究なしには、われわれは、純粋無垢な形で快を獲得することはできない。〉(『エピクロス 教説と手紙』岩波文庫 1959年 p.77-78)
 
人間が賢くなるために本は必要不可欠だ、という論陣を積ん読派が張ったとしよう。
トキメキ教徒からはこんな反論が予想される。人間って、賢くならなければいけないの?何のために?
 
人間がなぜ賢くあらねばならぬのか、エピクロスの主張はこうだ。
人間とは、快を求め不快を避ける生き物だ。そして自然界で生きる人間が快を求め不快を避けるためには、自然の理(ことわり)というものをよく研究しなければならない。自然界の法則を学び、賢くあることで、人間は快を求め不快を避けることができるのだ。
 
念のため付記すると、エピクロスのいう快とは、〈(略)道楽者の快でもなければ、性的な享楽のうちに存する快でもなく、じつに、肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されない(平静である)こととにほかならない。〉(前掲書p.72。ここらへん、欧米の若者の一部に見られるアルコールをあえて飲まないソーバー・キュリアスやアーリーリタイアを目指すFIRE派のフィーリングに近い気がする)
 
エピクロスの言に従えば、自然界や、人間にとって第二の自然界である人間社会の中で、なるたけ心身を苦しめることなく平静に暮らすために、人間は自然界や人間社会の理(ことわり)を知る必要がある。そのための武器の一つが本であり、武器は多いほどよい。だから積ん読は大切なのだ。
 
しかしながら、サモス島生まれの古代ギリシア人を引っ張り出してきても、トキメキ教徒の心はぴくりとも動かないだろう。so what?というところで、これはつまるところ教義の違いなのだ。
妥協点を探らねばなるまい。
(続く)

 

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