〈作家のウンベルト・エーコは博学でものを見る目があり、人を飽きさせない数少ない学者の一人だ。彼は(三万冊にも及ぶ)膨大な蔵書を使って、やってくるお客を二種類に分類している。「おお!シニョーレ・プロフェッソーレ・ドットーレ・エーコ!大変な蔵書ですね!いったい何冊お読みになったんですか?」という反応を示す人たちと、一握りのそうでない人たち、つまり、個人の蔵書は自尊心を膨張させる添加物ではなく、調査の道具だとわかっている人たちだ。
読んだ本は、読んでない本よりずっと価値が下がる。蔵書は、懐と住宅ローンの金利と不動産市況が許す限り、自分の知らないことを詰め込んでおくべきだ。歳とともに知っていることも本もどんどん積み上がっていく。読んでない本も増えていって、本棚から意地悪く見下ろしている。実際、ものを知れば知るほど読んでない本は増えていく。〉(ナシーム・ニコラス・タレブ『ブラック・スワン』ダイヤモンド社 2009年 p.26)
積ん読族とトキメキ派の攻防を書いている。
トキメキ派は言う。「読んでいない本は捨てろ」。
師曰く、〈いつか読むつもりの「いつか」は永遠にこない〉(近藤麻理恵『人生がときめく片づけの魔法』サンマーク出版 p.122)。
しかし、冒頭のタレブの言が真実ならば、蔵書は読んでいないからこそ価値がある。
読んでしまった本の内容(の一部)は、すでに頭の中にある。だが、読んでいない本の中には無限の可能性がある。まだ知らない世界が、読まれていない本の中には内包されているのだ。
知識社会において、知は力である。知の源泉の少なくとも一部は本である。知の源泉は力の源泉である以上、読まなくてもよいから、いやむしろ、今はまだ読まないものほど手元においておくべきなのだ。
大学病院で医学生や研修医を指導していた頃、「医学の教科書は読まなくてもいいから買っておくべき。いつ僻地の病院に赴任になるかわからないし、ふとした時、真夜中などに調べものをすることになるが、その時に手元に教科書があるかないかで大きな差になる。本は、読まなくても買うだけで力になる」と伝えてきた。
繰り返すが、知識社会において知こそ力だ。そして、自由競争社会において、力こそパワーで毎日がエブリデイで、そして誰もがエブリワンなのだ。
(続く)