積ん読派とトキメキ教の戦いについて書いている。
知識社会において、知は力である。
本は読まなくても持っているだけで力になる。
そう信じてきたし、そう信じている。
なぜなら、よる夜中でも台風の日でも、何か調べたいときにすぐ調べられるから。知へのフリーアクセスを保障からこそ、積ん読は尊いのだ。
だがあるとき疑問が芽生えた。
いついかなる時でも知にアクセスできるのが重要なら、電子書籍やインターネットはどうだろう?
ネットの情報は玉石混交なのでひとまずおくとしても、電子書籍利用者はいついかなる時でも事実上無限の本にアクセスできる。
だが、電子書籍を利用できるようになって、人類は賢くなっただろうか?いやそうではあるまい。
読んでいないながらも現物の本を積ん読する者の「知」の力と、読んでいない本に無限にアクセスできる電子書籍利用者の「知」の力の間には、やはり違いがあるように思われる。なぜか。
本は、そこにあるだけで持ち主を賢くしてくれる、という論陣を張っている。これを検証してみたい。
思考実験をする。
本はあればあるほど知の力を強めてくれる、とぼくは主張してきた。
しかし、もしその蔵書が、持ち主以外の誰か別の人によって買い集められた本であったらどうだろうか?
さらには、その持ち主以外の人によって買い集められた本が、持ち主の目につかないどこかに保有されていたとしたら?
その場合には、やはりどれだけの本を積ん読していたとしても、持ち主の知にはなんの影響もないだろう。
これはまさに「読んでない本への無限のアクセス権を保障された電子書籍ユーザー」と同じ状況だ。
ということは、「積ん読」というのは本を買い、読まずにそのまま積んでおく行為のみを指すのではないということになる。
結論はこうだ。
「積ん読」には、ある本を買おうかと悩み、その本のことをしばし考え、身銭を切り、本を手に取り表紙を見て、書棚に並べて背表紙を眺めて、「いつ読もうかな」と時々心に思い浮かべる一連の行為が含まれる。
そしてその中でささやかながらも知的活動が生まれ、それが蓄積する、というのか積ん読の効用である、というところだろう。
だから人は、積ん読をすべきなのだ。
しかしここで、トキメキ教徒の反撃が予想される。
積ん読派は、本は持っているだけで賢くなるというけれど、そもそも人間って、賢くなる必要があるの?なんのために?
(続く)