4.なぜ我々は「空気」を研究しなければならないか~『空気が支配する国』

『空気が支配する国』(物江潤 新潮新書)を読んでつらつらと。
 
なぜ我々は「空気」を研究しなければならないか。それは「空気」が我々をわずらわせるからである。
 
古代ギリシャの賢人エピクロスはこう書いている。
〈かりに天界・気象界の事象にかんする気がかりとか、われわれにとって死が何ものかでありはすまいかという死についての気がかりとか、さらに、苦しみや欲望の限界についての無理解とか、これらのことどもがすこしもわれわれを煩わさないとすれば、われわれは、自然研究を必要とはしないであろう。〉(『エピクロス 教説と手紙』岩波文庫 1959年p.77-78)
 
エピクロスにとって人間は快(瞬発的で刺激的な快ではなく、永続的な心の平穏のような快)を求め不快を避ける存在であった。快不快の原因は人間を取り巻く自然界に由来するので、快を追求するために人間は自然を研究すべき、というのがエピクロスの立場である。
 
エピクロスにならうならば、日本社会に生きる人間は、第二の自然ともいうべき「空気」を研究したほうがよい。現代日本社会において「空気」や「世間」や「世の中」というものは個人の快不快の大きな影響因子であり、それゆえぼくもまた「空気」というもの、「世間」や「世の中」というものの構造をもっともっと知りたいと願っている。
今のところの思いとしては「『空気』は濃過ぎても薄すぎても生きにくい」「『空気』の支配の有用性は認めるが、個人として『空気』へのカウンターとなるものを持っていないとしんどい」「多文化化や社会の分断により、日本社会は低コンテクスト化するので、今後日本社会の『空気』は薄くなることはあっても濃くなることはないのではないか」というところです。
(続く)
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