6.「空気が支配する国」での生き抜きかた。

まず最初に申し上げたいのは、これは「べき論」ではなく「好き嫌い」の問題だということだ。少なくともぼくはそう認識している。
「空気」の支配の中で心地よく過ごしたければそうすればよいし、「空気」の支配を嫌うのなら、その対策を取らなければならない。
いずれにせよ(国や社会の舵取りをするような立場でなければ)好きにすればいい。だがYou mates,take the red pill and play in wonderful Wonderland.
 
『空気が支配する国』(物江潤著)を読んでの空想の旅も、ひとまず一区切りとしたい。
「空気」による支配に抗したい場合にどうするか、現時点でのぼくの考えを残しておく。
 
上掲書では「空気」による社会統治の利点も認めるべきは認めるという立場であり、そこは賛同する。
だが「空気」による支配を嫌う者がどうすべきかについては、筆者の筆致は非常に抑制されている。
おそらく「こうすべき」という確たる信念を個人的には持ちながら、他者にそれを伝えると押し付けになるという逡巡があるのだろう。
 
筆者の提案するアイディアの一つはいわば「転地療法」(ネタばれを避けるためあえてミスティファイした)だが、これもまた過剰適応と他者依存という罠がある。どの場所にも「空気」はあり、だからこそ山本七平氏は「空気」と名付けたのだ。
過剰適応と他者依存こそが「空気」支配の警戒点である。そしてこれはここで言うべきでない言葉だと分かりつつ言うのだが、「空気」を読まずに言ってしまうと「他者依存」と「リア・ディゾン」は似ている。あースッキリした。
また「空気」支配への対抗策として平野啓一郎氏の「分人主義」も考えたが、これもまたアイデンティティクライシスを起こしそうなアイディアだ。
 
「空気」支配を嫌う場合に取りうる策として現時点で思うのは以下の3つだ。
①プリンシプルを持つ
②明晰な言葉を使う
③「空気」や「世間」の正体を見極める
 
①について、「空気」支配の問題点は過剰適応と他者依存だ。
依存する他者が「世間」というあいまいで漠然でどんどん変わるものなので、「空気」支配を受け入れると不安定極まりない。
「空気」支配と現今主義の利点を認めつつ、それにカウンターする「芯」がなければ流されるばかりだ。
自分の中にプリンシプルを持ち、常に「空気」と対峙せよ。
白洲次郎氏の言うように、プリンシプルを持つことは頑なで意固地になることではない。
生存のために時に「空気」と妥協し「世間」と取り引きすることもあるだろう。何事にも落としどころはある。
しかしプリンシプルなしに唯唯諾諾と「空気」に流されるのだけはやめておく。
Be yourself, no matter what they say.生殺与奪の権を「空気」に握らせるな。
 
②について。
「世間」を盾に「空気」による支配を盲目的に是とする者の直接の武器は言葉だ。
わざと曖昧な言葉で「空気」を作り出し、空疎な言葉で行間を作り出す。
「行間を読むな、行を読め」はネットの名言だが、その逆をやるのが「空気」支配を是とする者だ。
個人レベルの「察してちゃん」から国家レベルの「忖度くん」まで、「空気が支配する国」にはそんな人たちがたくさんいて、今日もまた行間と「空気」をせっせと生み出している。
そんなことに加担したくなければ、自分だけでも明確で明晰な言葉をあやつるべきだ。
「空気」を究極まで読み読ませるのは京都だけで充分どすえ。
 
③について。
正体が見えないものは怖い。
未知のウイルスも「空気」も、正体が見えなければ対策の打ちようがない。
だからこそ人間はワープスピードでウイルスを研究するし、「空気が支配する国」に生きる者は「空気」や「世間」を研究しなければならない。
物江潤氏の『空気が支配する国』はその研究にうってつけの本であると書いて、ひとまずこの話は一区切りとしたい。
 
ではまた。

 

空気が支配する国 (新潮新書)

空気が支配する国 (新潮新書)

  • 作者:物江 潤
  • 発売日: 2020/11/18
  • メディア: 新書