〈世間とは、いったい何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、
「世間というのは、君じゃないか」
という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤでひっこめました。
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)〉(太宰治『人間失格』)
『空気が支配する国』(物江潤 新潮新書)を読んでいろいろと空想を遊ばせている。あと1,2回お付き合いいただければ嬉しい。
鴻上尚史氏は著書『「空気」と「世間」』(講談社現代新書)の中で、阿部謹也氏の研究を引用しつつ、日本には「世間」はあっても「社会」はないと喝破した。そして「世間」とは、つまるところ利害関係の共同体に過ぎないとも明言した。
鴻上尚史氏の同書での主張は、近年みなが「空気」を読むことを強いられるのは、その利害関係の共同体である「世間」が崩れつつあるからだ、である。
「世間」が濃いから「空気」が濃くなるのか、「世間」が薄れつつあるから「空気」が濃くなるのかはわからない。
だが、「空気」と「世間」とは、おそらく切っても切れないものだ。「空気」も「世間」も、通常は不可視で、不可視だからこそ得体が知れず恐ろしい。
「空気」による過度の支配を嫌うなら、「空気」と「世間」を可視化しなければならない。
「空気」の源泉たる「世間」の正体を突き詰めてみれば、それは「世間」を盾にああだこうだと服従を強いる「あなた」に過ぎないのではないか、という魂の抵抗が、冒頭に挙げた太宰治の一節だ。
そしてその「世間とは、あなたじゃないですか?」という問いかけの矢は、僕らを押さえつけている物や者だけではなく、僕ら自身にも飛んでくる。自分は、「世間」を盾にして誰かを抑圧していないだろうか。
「空気」による過度の支配を嫌悪する者は「世間」によるコントロールを排除、少なくとも意識化しなければならないし、同時に自らの心から、「世間」を盾に他者を支配しようという欲求を封印しなければならない。
「空気」と「世間」による支配/被支配関係から極力脱却した先にあるのは凛とした「個」と「個」同士による協調と連帯とあるいは対立だが、なかなかそううまくはいかねえんだよなあ。人間だもの。みつを(嘘)