3回ほど、雑誌正論7月号『セクハラはチンパンジーもやっている』という記事の批判を書いた。
90年代の亡霊、竹内久美子氏の問題点として、
①話に進歩がない。華々しくデビューしたときの成功体験を引きずり、四半世紀も同じ話を繰り返している。
②「自然科学の知見」という葵の御紋のもと、疑問や批判を許さない断定的・押しつけ的権威主義。
を挙げた。
もう一つ問題点を加えるとしたら、
③イズムにおぼれ自然現象の解釈を恣意的に行っている。
となる。
生きていく上でなんらかのイズム、主義主張やプリンシプルを持っているというのは確かに有用だ。判断に迷ったときに依って立つものがあると、それだけで人生は生きやすくなる。
だが、こと自然科学の解釈にイズムを持ち込むと、あっという間にその人の言っていることはおかしくなる。
自然科学とイズムの密会がものごとの解釈を歪め、悲劇や喜劇を生んだ例としてはソビエト連邦でのメンデル批判とルイセンコ賛美が挙げられる。
ソビエト連邦スターリン政権下では、メンデルの遺伝学はブルジョワ的だと批判され、「環境により新たな性質を得た生物は、その獲得形質を次の世代へ遺伝させることができる」というルイセンコ主義が賞賛されたという(この部分、科学史に詳しい方にお任せしたい。①)。
イズムによる科学への干渉ということでは、米国バイブルベルトでの進化論否定もある。
「自然とはこうである」という観察に基づく自然科学と、「自然とはこうであるべきだ」というイズムとは、正直相性が悪い。
自然科学とはなにものにもとらわれずにありのままを観察し、世俗や宗教や権威がなんと言おうと、ありのままを記載するものだ、と思う。自然科学は本来、自由なのだ。
科学的精神は、自由のないところに根付かない。
<自由とは二足す二が四になると言える自由だ。これが容認されるならば、その他のことはすべて容認される。>(ジョージ・オーウェル『1984年』早川書房 昭和47年 p.104)
だがイズムー主義、かたまった考え方ーに染まると自然現象を観る目が歪む。
差し出された四本の指が、イズムに染まった目には五本に見えてしまう。そうなれば、自然科学の学徒としては致命的だ。
竹内氏は当該記事でこう述べる。
<竹内 チンパンジーは人間に一番近い。約七百万年前に共通の祖先から分かれ、片や乱婚、片や一夫一妻か一夫多妻。人間はやたらおとなしくなった。(略)>(正論2018年7月号 p.250)
人間に近いチンパンジーがセクハラをするから人間もしてよい、と匂わせる当記事の根底に流れるのは反フェミニズムである。
行間からあふれ出すのはフェミニストへの反感で、それを正当化するために自然現象をつまみ食いして提示するのが竹内氏の役回りだ。
フランス・ドゥ・ヴァール『道徳性の起源:ボノボが教えてくれること』(紀伊国屋書店 2014年)によれば、我々人間はチンパンジーよりむしろボノボに近いという。
その人間に近いボノボでは、あたり前のように同性愛行為がみられるとのことだが、チンパンジーをみれば男女間のセクハラなんか当たり前、<生物の二大テーマは生存と繁殖。これしかないんです。セクハラも繁殖行動の延長と言え、これはいけない。あれもだめとがんじがらめに制限するのは、私から見るとおかしい。>(当該記事 p.246)とする竹内氏らはボノボと人間でみられる同性愛についてどう解釈するのか。
驚くべきことに、竹内氏はそこの答えも用意してある。
<(略)二十一世紀になって分かったことには、男性同性愛者の母方の女たちは、そうでない家系の女たちと比べて非常によく子供を産んで、繁殖力が高い。だから、同性愛の子が時々出ても、そのマイナスをちゃんと補ってるんです、女たちが。>(当該記事 p.247)
ほんとかなあ。少子化の先進国で成立するとは思えないし、女性の同性愛者については何も言っていない。あいかわらず都合のよいとこだけピックアップしてないですか?
ポリコレ的に言えば<マイナス>って言い方もどうかと思うが、そこは今回は本題ではないので。
つらつら考えていて思ったのは、竹内氏らのスタイルで嫌なのは、自然への畏敬、センス・オブ・ワンダーを感じないからかもしれない。
本業の医者の仕事をしていると、人間の体ってよくできてるなあとか、人間ってすげえ、みたいな感覚になることはよくある。あるいは自然科学者の多くは、自然って、宇宙って、動物ってすげえ、人間サマがわかっていること考えていることってのはごくわずかだよなあ、みたいな感覚をどこかに持っていると思う。
竹内氏らのスタイルには、私は自然界のことも人間界のこともなんでもわかってます、私に説明できないことなんてないんです、みたいな傲慢さを感じてしまう。だから竹内氏やM木氏らみたいな、「人間社会の○○は、最新科学で説明できるんです」みたいな芸風に反感を持つのだと思う。個人的に。
人間サマの考え出した「イズム」におぼれ、自然への畏敬も人間社会への謙虚さも忘れて、自然科学者の持つ、ありのままを観察し、できるだけ近い姿で叙述するという姿勢を忘れてしまった(あるいは最初から持っていなかった)竹内久美子氏への批判はここらで終わりにしたい。90年代の亡霊は、一部で人気があるようだからまたよみがえってくるだろうが。
<T「おまえは、チェコから帰ってきたとき、チェコの患者が≪ドクター、イズムのつくものはみなよくありませんな。アルコーリズム、モルフィズム、クリスチャニズム、マルキシズム≫といってウインクしたといっただろう。おそらく冗談でいったに違いない。そしておまえは、今後はキリスト教、マルクス主義をキリスト中毒、マルクス中毒と訳そうといった。覚えているかい」>(なだいなだ『神、この人間的なものー宗教をめぐる精神科医の対話ー』岩波新書 2002年 p.185)
注①.マシュー・サイド『失敗の科学』ディスカヴァー・トゥエンティワン 2016年 p.136-141「イデオロギーが科学を殺す」などの部分が参考になる